リチャード・エドモンド・リング
リチャード・エドモンド・リング Richard Edmund Lyng | |
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生年月日 | 1918年6月29日 |
出生地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ |
没年月日 | 2003年2月1日(84歳没) |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州モデスト |
出身校 | ノートルダム大学(1940年6月卒業) |
所属政党 | 共和党 |
配偶者 |
ベチル・リン (1944年6月 - 2000年10月) |
子女 | 2人 |
在任期間 | 1986年3月7日 - 1989年1月21日 |
大統領 | ロナルド・レーガン |
在任期間 | 1969年3月3日 - 1973年1月23日 |
農務長官 |
クリフォード・M・ハーディン アール・L・バッツ |
在任期間 | 1967年1月 - 1969年3月 |
州知事 | ロナルド・レーガン |
リチャード・エドモンド・リング(英語: Richard Edmund Lyng、1918年6月29日 - 2003年2月1日)は、アメリカ合衆国の政治家。1986年3月から1989年1月まで同国の第22代農務長官であった。
生涯
[編集]1918年6月29日にカリフォルニア州サンフランシスコにおいて誕生した。1940年6月にノートルダム大学を卒業し[1]、その後はカリフォルニア州の自宅に戻り、父親の種子加工業の手伝いをした。1942年1月に陸軍に従軍して太平洋地域での戦闘に参加し、1945年10月に中佐として軍を退いた[2]。
1949年にリングは父親が経営していた種子加工会社のエド・J・リング・カンパニー社を引き継いで社長に就任した。リングは1967年まで同社社長を務めた。また1953年にリングはカリフォルニア州種子協会の会長にも就任した。
カリフォルニア州農務長官
[編集]1966年11月にカリフォルニア州から連邦上院議員に立候補して敗北し、リングが公職に立候補したのはこれが唯一であった。同年にリングはカリフォルニア州知事に立候補したロナルド・レーガンを支持した。リングは農業問題の顧問役としてレーガンを支援し、その後は1967年1月から1969年3月までカリフォルニア州農務長官を務める。
アメリカ合衆国農務次官補
[編集]1969年1月にリチャード・ニクソンが大統領に就任すると、同年3月に農務次官補となった。リングはマーケティング及び消費者問題担当として着任し、ニクソンが大統領を辞任する1973年1月まで同職にあった。同年7月から1979年11月までアメリカ食肉協会の会長を務め、国内の農業政策に強い影響力を与えた[3][4]。
アメリカ合衆国農務長官
[編集]1981年2月に農務副長官になったが[5]、1985年1月に同職を辞任してリング・アンド・レシャー社の顧問役に就任した。また1986年3月から1989年1月まで農務長官であった。
晩年
[編集]2003年2月1日にカリフォルニア州モデストにおいて、パーキンソン病による併発症で死亡した。
家族
[編集]1944年6月にベチル・ボール・リンと結婚し、2人の子女が誕生した。両者の婚姻関係は、2000年10月にベチルが死去するまで続いた[6]。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- United States Department of Agriculture(archive.is、2012年12月14日) - http://www.usda.gov/wps/portal/!ut/p/_s.7_0_A/7_0_1OB?navid=FORMER_SECRETARIES&pageindex=1
- NNDB.com
公職 | ||
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先代 - |
アメリカ合衆国農務次官補 (マーケティング及び消費者問題担当) 1969年3月3日 - 1973年1月23日 |
次代 クレイトン・キース・ヤイター |
先代 ジェイムズ・H・ウィリアムズ |
アメリカ合衆国農務副長官 1981年2月 - 1985年1月 |
次代 ジョン・R・ノートン3世 |
先代 ジョン・ラスリング・ブロック |
アメリカ合衆国農務長官 1986年3月7日 - 1989年1月21日 |
次代 クレイトン・キース・ヤイター |