ガザロス・サリアン
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(ラーザリ・サリアンから転送)
ガザロス・サリアン | |
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基本情報 | |
出生名 | Ղազարոս Սարյան |
生誕 |
1920年9月30日 ソビエト連邦 ロストフ・ナ・ドヌ |
死没 |
1998年5月27日(77歳没) アルメニア・ソビエト社会主義共和国 エレバン |
学歴 | グネーシン音楽大学,/br>モスクワ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
ガザロス・サリアン(アルメニア語: Ղազարոս Սարյան, ラテン文字:Ghazaros Saryan, 1920年9月30日 - 1998年5月27日)は、アルメニアの作曲家。ロシア語風に「ラーザリ・サリアン」(ロシア語: Лазарь Мартиросович Сарьян)とも呼ばれる。
経歴
[編集]- 生い立ち
1920年、ロストフ・ナ・ドヌで生まれた。父のマルティロス・サリアンは画家、祖父のガザロス・アガヤンは作家だった。1934年から1938年までエレバン音楽院で学んだ後、モスクワに出てグネーシン音楽大学でヴィッサリオン・シェバリーンに作曲を学んだ。
1941年に独ソ戦が勃発すると、サリアンは徴兵されて1945年まで軍務についた。戦後、モスクワ音楽院に入学してドミトリー・カバレフスキー、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、アナトーリー・アレクサンドロフに作曲を師事し、1950年に卒業した。
- 音楽院卒業後
アルメニアに戻った後、エレバン音楽院の管弦楽法の教授となり、1955年から1956年にはアルメニア作曲家連盟の議長を務めた。1960年にエレバン音楽院の学長に就任し、1986年まで在職した。教え子にはティグラン・マンスリアンらがいる。
1983年にはアルメニア共和国人民芸術家、1991年にはソ連人民芸術家の称号を得るなど、多くの賞を獲得した。1998年、エレバンにて死去。
作曲作品とその特徴
[編集]作品には表面的な美しさと冒険的なリズム・和声が同居している。
作品
[編集]管弦楽曲
[編集]- 交響詩(1950)
- 祝典序曲(1957)
- 弦楽のためのアダージョと舞曲(1957)
- セレナーデ(1959)
- 交響的パネル「アルメニア」(1966)
- ヴァイオリン協奏曲(1972)
- 交響曲(1980)
- パッサカリア(1994)
- ファンファーレ(1996)
- アンダンテとプレスト(1997)
声楽曲
[編集]- 平和の歌(1951)
- 平和の日(1953)
室内楽曲
[編集]- 主題と変奏~ピアノのための(1947)
- ソナタ第1番~チェロとピアノのための(1948)
- 弦楽四重奏曲第1番(1949)
- 舞曲~ピアノのための(1955)
- コンサートピース~トランペットとピアノのための(1962)
- アリアとトッカータ~ヴァイオリンとピアノのための(1966)
- 弦楽四重奏曲第2番(1986)
- ソナタ第2番~チェロとピアノのための(1989)
文献
[編集]- Արաքսի Սարյան, Ղազարոս Սարյանը եվ նրա ժամանակը, Аракси Сарьян, Дазарь Сарьян и Его Время. «Արճեշ» հրատարակչություն, Yerevan 2001.