エマヌエル・メッテル
エマヌエル・レオノーヴィチ・メッテル | |
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基本情報 | |
生誕 | 1878年2月28日 |
出身地 | ロシア帝国(現 ウクライナ)・ヘルソン |
死没 | アメリカ合衆国 ウェスト・ハリウッド 1941年8月28日(63歳没) |
学歴 | サンクトペテルブルク音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
エマヌエル・レオノーヴィチ・メッテル(ロシア語: Иммануил[1] Леонович Меттер、ウクライナ語: Іммануїл[1] Леонович Меттер、英語: Emmanuel Leonievich Metter, 1878年2月28日[2] - 1941年8月28日)はロシア帝国・ウクライナ出身の指揮者。
生涯
[編集]ヘルソンにてユダヤ教を信仰する商人の家庭に生まれる。本名メナヒム=マン[3]・ユドヴィチ・メッテル(ロシア語: Менахим-Ман Юдович Меттер、ウクライナ語: Менахем-Ман Юдович Меттер)。1897年8月26日、ハリコフ帝国大学[4]医学部に入学するも、1898年9月7日、同大学法学部に転部。1906年にハリコフ帝国大学法学部を卒業し、同年9月、聴講生としてサンクトペテルブルク音楽院に入学し、1907年5月に中退[5]。カザンの歌劇場で指揮者を務めていた時期にプリマ・バレリーナのエレナ・オソフスカヤと結婚。のちハルビンに亡命してハルビン交響楽団で指揮活動を行ったが、亡命の時期について岡野弁は1916年頃、ロシア革命勃発の直前ではないかと推測している[6]。
宝塚音楽歌劇学校で教授を務めていた妻エレナを追って1926年3月に来日。神戸市中山手通や東灘区の深江文化村に住み、ハインリヒ・ヴェルクマイスターの後任として大阪放送管弦楽団を指揮。また京都帝国大学音楽部のオーケストラ(現京都大学交響楽団)の常任指揮者を10年以上務めた。門人に朝比奈隆や服部良一、酒井協、齋藤登、長廣敏雄、宮澤縦一、吉村一夫、小川昂、溝部国光などがいる。
1939年10月6日、横浜港から渡米。1941年8月28日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ウェスト・ハリウッドにて心臓病のため死去。
脚注
[編集]- ^ a b この綴りの読みは「インマヌイル」だが、「エンマヌイル」とも綴られうる(ロシア語: Эммануил、ウクライナ語: Еммануїл)。
- ^ 長廣敏雄監修の小冊子『関西音楽界の父 エマヌエル・メッテル』(NHK大阪放送局編)では1884年2月28日生まれとしているが、岡野弁は現地取材の上、ハリコフ帝国大学学生名簿に基づいてこれを誤りとしている。『メッテル先生』p.32-33を参照。
- ^ 「マン」は、イディッシュ語に於ける「インマヌイル(エンマヌイル)」のヴァリアントの一つ。
- ^ ハルキウ(ハリコフ)大学の前身。
- ^ 長廣敏雄監修の小冊子『関西音楽界の父 エマヌエル・メッテル』(NHK大阪放送局編)では、1928年11月23日付『大阪朝日新聞』の記事に基づいて1910年ペテルブルク音楽院卒業としているが、岡野弁は現地取材の上、音楽院卒業者名簿にメッテルの名が記載されていないことを確認した。『メッテル先生』p.61を参照。
- ^ 岡野弁『メッテル先生』p.89(リットーミュージック、1995年)