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ヒ85船団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マタ40船団から転送)
ヒ85船団

ヒ85船団の全行程に参加したタンカーのせりあ丸
戦争太平洋戦争
年月日1944年12月19日 - 1945年1月4日
場所門司サンジャック間の洋上
結果:タンカーは故障1隻以外が目的地到着、増援輸送は8割方成功
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
渋谷紫郎
戦力
門司=高雄間
輸送船 5-6, 軽巡洋艦 1
海防艦 6-7, 駆潜艇 1
高雄=ブンタウ間
輸送船 13, 軽巡洋艦 1
海防艦 6, 掃海艇 1
ルソン島分遣
輸送船 4, 海防艦 3-5
航空機 30以上
損害
輸送船 1沈没
海防艦 1-3沈没・損傷
フィリピンの戦い

ヒ85船団(ヒ85せんだん)は、太平洋戦争後期の1944年12月から1945年1月に門司からサンジャックへ航海した日本の護送船団である。積み取りに向かう石油タンカーを主体に、ルソン島へ陸軍部隊を運ぶ輸送船も経由地の高雄港まで合同して運航された。タンカーは故障した1隻以外無事に到着し、ルソン島への増援も8割が上陸する一応の成功を収めた。なお、ここではルソン島行き輸送船の帰路にあたるマタ40船団についても解説する。

背景

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1944年(昭和19年)12月、レイテ島の戦いはアメリカ軍の勝利に終わり、アメリカ軍のフィリピン反攻作戦の矛先は首都マニラのあるルソン島へ迫った。迎え撃つ日本軍は、ルソン島へ増援部隊を送り込むべく最後の努力を続けていた。しかし、アメリカ軍がモロタイ島レイテ島などに航空基地を設置してルソン島の制空権争いで優位に立ち、潜水艦空母搭載機による攻撃も加わって、日本艦船の行動は非常に困難な情勢であった。 その代表例がヒ81船団で、米潜水艦の襲撃により11月15日から17日にかけて陸軍特殊船2隻(あきつ丸摩耶山丸)と空母神鷹を喪失、レイテ島投入予定の日本陸軍第23師団は戦う前に大部分が海没するに至った[1]大本営陸軍部は修理中の青葉山丸と、ヒ81船団に参加して生き残った陸軍船2隻(吉備津丸神州丸)を活用し[2]、第23師団残余・第19師団第10船団を三回の折り返し輸送でルソン島に運ぶことにした[3][4]。日本陸軍は「一回タケテヨイカラ第十師団ノ輸送ニ協力サレタシ」と日本海軍に頼み込んだが、海軍にも余裕はなく断られていたのである[4]。 だが従来の揚陸拠点だったマニラも米軍機動部隊艦載機の空襲を受けており、日本海軍艦艇や陸軍船舶多数が撃沈されていた[4]。もはやマニラへの入港は危険過ぎるため、北部のサンフェルナンドが代わりの主要揚陸拠点となっていた。

一方、アメリカ軍のフィリピンへの反攻は、日本の資源輸送のためのシーレーンにとっても危機的な事態であった。特に戦争継続に不可欠な石油の本土輸送への影響は深刻で、ボルネオ島産石油を運ぶミ船団はすでに同年11月末をもって運航中止に追い込まれていた[5]。日本海軍はヒ船団と称する門司シンガポール(昭南)間の石油輸送船団だけは維持しようと試みて、タンカーと護衛兵力の集中を進めていた。

こうした状況で日本からシンガポールを目指して送りだされることになったのが、通算85番目・往路43番目のヒ船団を意味する名称のヒ85船団である。本来のヒ船団は高速大型タンカーを中心とした編制であるが、門司出港時のヒ85船団には1-2隻のタンカーしか無く[注 1]、代わりに経由地の高雄で貨物船改造などの低性能タンカー10隻以上が加入する計画だった。従来ならミ船団に組み込まれたはずの低性能船が航路廃止に伴い振り替えられたもので、初めての低速ヒ船団となった。 さらに、ルソン島へ第19師団第1挺進集団各主力などの精鋭部隊を運ぶ陸軍船3隻(日向丸、吉備津丸、神州丸)と新型貨物船改装の軍隊輸送船1隻(青葉山丸)も加入した[注 2]。 護衛は船団護衛専門に新設されたばかりの第101戦隊(司令官:渋谷紫郎少将)を中心とする有力な布陣だった[5]

航海の経過

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ヒ85船団本隊

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1944年(昭和19年)12月17日、まず第1挺進集団の滑空第一聯隊が空母雲龍に乗艦してフィリピンに向かうが、同艦は12月19日に米潜水艦によって撃沈された[10][11]

12月19日、ヒ85船団は門司を出撃し、大陸接岸航路に針路を執った。第1挺進集団の滑空第二聯隊は陸軍船舶2隻(日向丸、青葉山丸)に乗船し、門司を出撃した[注 3](この時、第19師団の3コ大隊を門司で下船)[12]。 大陸接岸航路は航行距離が長くなってしまうが、水深が浅いため敵潜水艦の行動が難しく、陸側からの襲撃の危険も小さい利点があった。船団は対馬海峡を渡って朝鮮半島西岸を北上、仁川市沖から黄海を横断すると山東半島伝いに南下した[7]舟山群島を経て福州沖から台湾西岸へ台湾海峡を渡り、12月23日夜に高雄沖へ到達した。ただし、敵機動部隊接近との情報に伴い、24日午前に一旦は洋上退避している[13]

12月25日午後、ヒ85船団は特に損害を出さずに高雄港へ入港した。ここでルソン島向け輸送船4隻は分離され、新たな護衛艦艇とともにルソン島へ向かった(詳細後述)。入れ替わりにヒ85船団本隊には滞留中の2AT型戦時標準船8-9隻・2TM型戦時標準船2隻の低性能タンカー群と貨物船1隻が加入し、輸送船13隻の編制に変わった[5]。途中加入船は、3日前に門司から到着したモタ28船団などで集結していたものである[注 4]

12月27日午前にヒ85船団は高雄を出発、大陸沿岸伝いに南下を再開した。同日午後5時半頃にタンカーの大楠丸(大阪商船:6968総トン)が故障したため船団から除外され、高雄へ反転した[16][注 5]。12月28日に貨物船帝北丸(帝国船舶:5794総トン、フランス船ペルセを徴用)と護衛の海防艦対馬が分離され、海南島楡林港へ先行した[16]。12月29日夕刻には香港沖で第101号掃海艇が護衛協力の立場で合同する[21]

船団は中国内陸部から飛来するアメリカ陸軍航空軍B-24爆撃機から接触を受け、12月30日午前8時25分に北緯20度05分 東経111度15分 / 北緯20.083度 東経111.250度 / 20.083; 111.250地点で1機、12月31日12時15分にも北緯17度34分 東経108度00分 / 北緯17.567度 東経108.000度 / 17.567; 108.000地点で1機が上空に出現したが被害はなかった[16]。ただし、分離先行した対馬は海南島沖でB-24の爆撃を受け至近弾により損傷した[22]、1月3日から20日まで楡林で応急修理を受けている[23]

1945年(昭和20年)1月1日夕刻にヒ85船団本隊はクイニョン湾(キノン湾)へ到達した。潜水艦に対する目視警戒が難しい夜間航行を避けて仮泊し、翌1月2日再出発。同日夜はニャチャン(ナトラン)沖で仮泊した後、1月4日にサンジャック(聖雀、現在のブンタウ)へ入港。ここでシンガポール行きの予定を変更して船団運航打ち切りとなり、以後は各船で行動することになった[16]

ルソン島分遣船団

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マタ40船団

空襲を受けつつあるマタ40船団の陸軍船
戦争太平洋戦争
年月日1945年1月1日 - 1月4日
場所サンフェルナンド高雄間の洋上
結果:輸送船1隻を失うも離脱成功
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
来島茂雄 ジョン・S・マケイン Sr.
戦力
輸送船 3, 海防艦 6 潜水艦 1, 航空機 50
損害
輸送船 1沈没, 1損傷

ルソン島行き輸送船4隻(日向丸、青葉山丸、吉備津丸、神州丸)は高雄港より第一海上護衛隊第2運航指揮官の来島茂雄大佐の指揮を受けて、1944年(昭和19年)12月26日にルソン島へ出撃した[24][25]。 駒宮(1987年)によれば新たな船団名はタマ38船団である[7]。護衛艦は海防艦三宅(旗艦)、能美[26]など3[7]-5隻[27][28]が随伴した。日本側はアメリカ海軍機動部隊が行動中と推定していたため、バタン諸島などに一時碇泊して島陰に隠れつつ航行し[7]、12月29日夕刻にサンフェルナンドへ到着した[29]

サンフェルナンドの湾内に入った船団は、ただちに徹夜で揚陸作業を開始した[7]。これに対し、アメリカ第5空軍に属するB-25爆撃機A-20攻撃機P-40戦闘機も碇泊中の日本艦船を狙って昼夜を問わず空襲した[30]。 12月30日午前7時頃、貨物船の青葉山丸(三井船舶:8811総トン。虎兵団山砲第25聯隊乗船)が爆撃により炎上、船体が折れて沈没[31]。陸軍兵21人が戦死した[7][32]。続いて第20号海防艦も被弾して沈没した[31]。 30日に被弾した第138号海防艦も本船団の護衛艦と推定される[27][7][注 6]。 その他、30日の空襲ではサンフェルナンド付近でマタ37船団[35]またはマタ38船団[36]も襲われ、貨物船の室蘭丸(日本郵船:5374総トン)が沈没、帝海丸(帝国船舶:7691総トン)が大破擱座和浦丸(日本郵船:6804総トン)と日昌丸南洋海運:6526総トン)が小破している。

12月31日深夜までに船団は輸送物件の80%を無事に揚陸した[7]。空荷となった陸軍船3隻はマタ40船団を編成[37]、航空部隊関係者などの便乗者を神州丸陸軍省:8160総トン)が283人以上、吉備津丸(日本郵船:9574総トン)が500[38]-550人[17]収容すると、1月1日午前3時45分に高雄へ向けて帰路に就いた。 マタ38A船団の護衛艦艇だった海防艦2隻(干珠、生名)がマタ40船団に加入し[37]、海防艦6隻(三宅、干珠、能美、生名、海防艦39号、海防艦112号)で輸送船3隻(神州丸、吉備津丸、日向丸)を護衛する[39]

このころ、アメリカ海軍の第38任務部隊(司令官:ジョン・S・マケイン・シニア中将)がウルシー環礁を12月30日に出撃して、ルソン島上陸の事前攻撃の目的で台湾沖に接近しつつあった。1月3日、第38任務部隊は台湾地区の日本軍航空基地や艦船を攻撃目標として大規模な空襲を開始した[40]。マタ40船団も第38任務部隊に発見され、午前11時頃から約50機による攻撃を受けてしまった。この空襲で神州丸が大破炎上[41]。航行不能に陥って放棄され、同日夜にアメリカの潜水艦アスプロの雷撃で撃沈された[42][注 7]。 神州丸では便乗者283人・船砲隊66人・船員33人が戦死した[42]。吉備津丸も爆弾に直撃されて中破、陸軍兵71[42]-75人[17]が戦死した。そのほか機銃掃射などにより日向丸(日産汽船:9687総トン)で3人[43]、海防艦三宅は戦死6名と負傷13名[44]第112号海防艦で2人が戦死した[42]

高雄港にたどり着いたマタ40船団の各艦は、応急修理を受けた後で分散行動することになった。海防艦(三宅、能美、干珠)は1月10日よりヒ87船団に加入、特務艦神威や駆逐艦時雨等と共にシンガポールへ向かった[45](香港で神威等沈没、マレー半島東岸で時雨沈没)[46]。日向丸は、1月19日に門司へ帰着し[42]、吉備津丸は、楡林から北上してきた帝北丸などのユタ15船団(第101戦隊残存艦護衛)と1月26日に南日島(現在の秀嶼区南日鎮内)にて合同し[47]、2月11日に門司へ帰着している[42]

結果

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ヒ85船団は厳しい情勢下での運航として一定の成功を収めた。加入タンカーのうち故障脱落した1隻を除く11隻がサンジャックまで無事に到着し、ルソン島への増援輸送も加入船2隻が沈没したが輸送物件の80%は揚陸できた。ルソン島には本輸送直後の1945年1月6日にアメリカ軍が上陸してルソン島の戦いが始まったため、ヒ85船団が最後の大規模な増援輸送成功例となった。ただし、サンフェルナンドが1月7日にアメリカ海軍の艦砲射撃に見舞われ、海岸付近にあった揚陸物資のほとんどは破壊されてしまい有効活用できなかった[7]

サンジャックまで到着できたタンカーも、最終的に日本への石油持ち帰りに成功した船は一部だけだった。大津山丸(三井船舶:6859総トン)はヒ86船団に加入して再び第101戦隊の護衛を受けて日本を目指したが、1月12日にアメリカ海軍が発動したグラティテュード作戦による第38任務部隊の空襲で撃沈された。グラティテュード作戦では神祇丸(岡田商船:6850総トン)もサシ40船団に加入してサンジャックから本来の目的地のシンガポールへ向かう途中で撃沈され、便乗していた南方軍関係者1165人中863人が戦死している[48]。山澤丸(山下汽船:6889総トン)も1月21日に高雄で第38任務部隊による空襲を受けて大破擱座した[49]。また、桜栄丸(日東汽船:2858総トン)は2月6日にシンガポール港内で機雷に接触し沈没した[50]。1月下旬に日本海軍が石油緊急輸送のため発動した南号作戦ではヒ85船団で到着したタンカーが前半の主力となり、ヒ88Aからヒ88E船団までで6隻が参加したうち生還したのはせりあ丸(三菱汽船:10238総トン)など4隻だった[注 8]

編制

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ヒ85船団:門司から高雄まで

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ヒ85船団:高雄からサンジャックまで

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  • 輸送船
    • タンカー - せりあ丸、神佑丸、神祇丸、大楠丸、大暁丸、延慶丸、延長丸、延元丸、山澤丸、大津山丸、楓栄丸、桜栄丸
    • その他 - 貨物船帝北丸(楡林港行き)
  • 護衛艦
    • 軽巡洋艦香椎(旗艦・第101戦隊司令官:渋谷紫郎少将座乗)
    • 海防艦 - 鵜来、大東、対馬、第23号海防艦、第27号海防艦、第51号海防艦
    • その他 - 第101号掃海艇(29日香港沖で合同・協力)[21]

マタ40船団

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b ヒ85船団の当初加入タンカーについて、岩重(2011年)や『海防艦鵜来戦時日誌』ではせりあ丸1隻だけとするのに対し[5][6]、駒宮(1987年)および『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』では「神佑丸」を加えて2隻としている[7][8]
  2. ^ 駒宮(1987年)はルソン島向け船団の門司・高雄間の別名をモタ38船団とする[7]。しかし、『第一護衛艦隊戦時日誌』によればモタ38船団は1945年2月16日に門司から高雄へ出航した別の護送船団である[9]
  3. ^ 戦史叢書41巻『捷号陸軍作戦』559頁の兵団部隊輸送表では、滑空第二聯隊の出撃日を21日とする。だが海防艦鵜來戦時日誌では日向丸と青葉山丸も12月19日門司出撃とする。
  4. ^ モタ28船団は大楠丸、神祇丸、桜栄丸、山澤丸、室蘭丸、帝海丸の輸送船6隻で、第20号・第138号海防艦の護衛により門司を12月14日に出発し、12月22日に無事に高雄へ到着[14]。そのほかのヒ85船団途中加入船のうち延長丸、延元丸、延慶丸の3隻は、同じ12月に高雄まで南下したところで運航打ち切りとなったミ29船団の加入船であった[15]
  5. ^ この点、『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』によれば、大楠丸は12月21日に台湾海峡北部北緯25度22分 東経120度09分 / 北緯25.367度 東経120.150度 / 25.367; 120.150地点で暴風により遭難沈没して2人死亡となっている[17]。しかし、大阪商船の『戦禍損傷船舶 事故・海難報告書』には1945年1月9日に高雄碇泊中の空襲により損傷して戦死4人・負傷8人との記録があり、高雄までたどり着いている[18]。その後、大楠丸は1月19日に高雄発のタモ38船団へ加入して日本本土へ帰還したが[19]、同年5月5日に小呂島付近で空襲により大破擱座している[20]
  6. ^ 第138号海防艦は、その後、マニラから北上してきた高雄行きのマタ38A船団を第66号海防艦とともに護衛するが、1945年1月2日の第5空軍所属A-20攻撃機・P-38戦闘機による空襲で同船団の貨物船の明隆丸(明治海運:4739総トン)および菱形丸(鹵獲船:2833総トン)とともにサンフェルナンド付近で撃沈された[33][34]
  7. ^ ただし、『アメリカ海軍第二次世界大戦公式年表』(The Official Chronology of the US Navy in World War II )ではアスプロの神州丸攻撃日付が1月2日で、1月3日の空襲でとどめを刺したと逆の経過を述べている[34]
  8. ^ 確認できる南号作戦への参加船はヒ88Aのせりあ丸(生還)、ヒ88Cの延長丸(日本郵船:6888総トン、生還)、ヒ88Dの大暁丸(大阪商船:6892総トン、沈没)と延元丸(日本郵船:6890総トン、沈没)およびヒ88Eの神佑丸(岡田商船:6956総トン、生還)と延慶丸(日本郵船:6892総トン、生還)まで6隻。このほか、楓栄丸(日東汽船:2872総トン)に乗船した海軍警戒隊戦闘詳報には、2月10日に他の輸送船1隻と船団(名称不明)を組み護衛艦2隻を伴ってシンガポールから日本本土へ出航と記録されている[51]。この記録はヒ88F船団(輸送船2隻・護衛艦2隻)の2月11日(『海防艦能美戦時日誌』によると2月10日[52])にシンガポール発・3月8日に門司着と類似するが、同船団の加入船は駒宮(1987年)によれば栄丸と福栄丸、岩重(2011年)によれば船名不詳である[53]
  9. ^ 門司=高尾間の参加海防艦には資料により差異があり、このリストは『海防艦鵜来戦時日誌』に従っている[6]。岩重(2011年)では第27号が高雄からの途中参加とされ、代わりに第112号と第138号が挙がっている[5]。駒宮(1987年)によれば、対馬は高雄からの途中参加で代わりに第112号が挙がっており[7]、第138号については12月22日に門司から高雄へ到着したモタ28船団(ヒ85船団へ途中加入する大楠丸、神祇丸、桜栄丸、山澤丸を含む)の護衛艦に挙げている[14]

出典

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  1. ^ 戦史叢書41巻、469-470頁『第二十三師団主力海難の報到る』
  2. ^ 戦史叢書41巻、485-486頁『第十、第十九師団、船舶工兵二コ聯隊の派遣発令と輸送計画』
  3. ^ 戦史叢書41巻、470,485頁〔陸命第1187-8号(20日)(要約)在臺灣第十師団(船舶工兵第三十二聯隊を付す)、在鮮第十九師団(船舶工兵第二十五聯隊を付す)を比島  同二十四日大命 關東軍は第十二師団を集結待機させよ〕
  4. ^ a b c 戦史叢書41巻、470-471頁『陸軍部苦慮』
  5. ^ a b c d e 岩重(2011年)、95頁。
  6. ^ a b c 海防艦鵜来 『自昭和十九年十二月一日 至昭和十九年十二月三十一日 海防艦鵜来戦時日誌』 JACAR Ref.C08030595900、画像6枚目。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 駒宮(1987年)、311-312頁。
  8. ^ 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』、JACAR Ref.C08050112800、画像32枚目。
  9. ^ 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年二月一日 至昭和二十年二月二十八日 第一護衛艦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030142100、画像48枚目。
  10. ^ 戦史叢書41巻、558頁(第一挺進集団、第一滑空聯隊)
  11. ^ 戦史叢書41巻、559頁(昭和19年12月中旬~1月中旬の兵団部隊輸送表)
  12. ^ 戦史叢書41巻、558頁(第一挺進集団第二聯隊)
  13. ^ 海防艦鵜来 『自昭和十九年十二月一日 至昭和十九年十二月三十一日 海防艦鵜来戦時日誌』 JACAR Ref.C08030595900、画像7枚目。
  14. ^ a b 駒宮(1987年)、310頁。
  15. ^ 駒宮(1987年)、299-300頁。
  16. ^ a b c d 駒宮(1987年)、314-315頁。
  17. ^ a b c 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』、JACAR Ref.C08050112600、画像18枚目。
  18. ^ 大阪商船株式会社 「大楠丸事故報告書」『戦禍損傷船舶 事故・海難報告書』 JACAR Ref.C08050121900、画像43-48枚目。
  19. ^ 駒宮(1987年)、334-335頁。
  20. ^ 駒宮(1991年)、154頁。
  21. ^ a b 海防艦鵜来 『自昭和十九年十二月一日 至昭和十九年十二月三十一日 海防艦鵜来戦時日誌』 JACAR Ref.C08030595900、画像7、17枚目。
  22. ^ 大井篤 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年、362頁。
  23. ^ 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 第一護衛艦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030142000、画像11枚目。
  24. ^ 三宅戦記、118-120頁『虎兵団を決死輸送』
  25. ^ 三宅戦記、121頁『虎兵団比島緊急輸送行動図(昭和19年~20年)』
  26. ^ 海防艦能美 『自昭和十九年十二月一日 至昭和二十年三月三十一日 海防艦能美戦時日誌』 JACAR Ref.C08030151000、画像45-46枚目。
  27. ^ a b 岩重(2011年)、79頁。
  28. ^ 三宅戦記、119頁では三宅、能美、海防艦20号、海防艦39号、海防艦112号、海防艦138号とする。
  29. ^ 三宅戦記、122頁
  30. ^ Cressman (1999) , p. 599.
  31. ^ a b 三宅戦記、124-125頁
  32. ^ 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』、JACAR Ref.C08050112500、画像48枚目。
  33. ^ 駒宮(1991年)、315頁。
  34. ^ a b Cressman (1999) , p. 602.
  35. ^ 郵船(1971年)、816頁。
  36. ^ 駒宮(1991年)、315-316頁。
  37. ^ a b 三宅戦記、125-126頁『高雄沖対空戦闘』
  38. ^ 郵船(1971年)、291頁。
  39. ^ a b 第一護衛艦隊司令部 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 第一護衛艦隊戦時日誌』 JACAR Ref.C08030142000、画像58枚目。
  40. ^ 三宅戦記、127-129頁
  41. ^ 三宅戦記、132-133頁
  42. ^ a b c d e f 駒宮(1987年)、324-325頁。
  43. ^ 『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』、JACAR Ref.C08050112600、画像12枚目。
  44. ^ 三宅戦記の133頁では戦死者6名の姓・階級記載。
  45. ^ 三宅戦記、137-139頁『香港港で対空戦闘』
  46. ^ 三宅戦記、139頁『ヒ87、さらわく丸、ヒ88C船団(南号作戦)参加行動図(昭和20年)』
  47. ^ 海防艦鵜来 『自昭和二十年一月一日 至昭和二十年一月三十一日 海防艦鵜来戦時日誌』 JACAR Ref.C08030595900、画像29枚目。
  48. ^ 駒宮(1987年)、333頁。『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』、JACAR Ref.C08050112500、画像49枚目。Cressman (1999) , p. 609.
  49. ^ 駒宮(1991年)、254頁。Cressman (1999) , p. 613.
  50. ^ 駒宮(1991年)、42頁。
  51. ^ 商船楓栄丸警戒隊長 海軍上等兵曹 秋田悦治 「商船楓栄丸戦闘詳報」『大東亜戦争 戦闘詳報 武装商船警戒隊 自昭和十九年五月 至昭和二十年七月』 JACAR Ref.C08030692100、画像5枚目。
  52. ^ 海防艦能美 『自昭和十九年十二月一日 至昭和二十年三月三十一日 海防艦能美戦時日誌』 JACAR Ref.C08030151000、画像53枚目。
  53. ^ 岩重(2011年)、97頁。

参考文献

[編集]
  • 浅田博、高城直一(発行者)「第四章 比島沖海戦」『海防艦三宅戦記 輸送船団を護衛せよ』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年9月(原著1985年)。ISBN 978-4-7698-2799-3 
  • 岩重多四郎『戦時輸送船ビジュアルガイド2―日の丸船隊ギャラリー』大日本絵画、2011年。 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版共同社、1987年。 
  • 駒宮真七郎『戦時船舶史』駒宮真七郎、1991年。 
  • 日本郵船株式会社『日本郵船戦時船史』 下、日本郵船、1971年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 第41巻、朝雲新聞社、1970年12月。 
  • Cressman, Robert, The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II, Annapolis MD: Naval Institute Press, 1999.
  • 陸軍運輸部残務整理部『船舶輸送間に於ける遭難部隊資料(陸軍)』アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08050112500、C08050112600、C08050112800。 


関連項目

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