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マクシム・ゴーリキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マクシム・ゴーリキー
Максим Горький
ゴーリキーの署名入り肖像
誕生 アレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフ
Алексей Максимович Пешков
1868年3月28日
ロシア帝国 ニジニ・ノヴゴロド
死没 (1936-06-18) 1936年6月18日(68歳没)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 モスクワ
墓地 ロシアの旗 ロシア モスクワ赤の広場
職業 作家
言語 ロシア語
国籍 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
活動期間 1892年 - 1936年
ジャンル 小説
戯曲

ノンフィクション
文学活動 ロマン主義
社会主義リアリズム
代表作 どん底
海燕の歌
主な受賞歴 レーニン勲章
デビュー作 マカル・チュドラ
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マクシム・ゴーリキーМакси́м Го́рький, 旧綴: Горькій, 1868年3月28日ユリウス暦3月16日) - 1936年6月18日)は、ロシア小説家劇作家。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフАлексе́й Макси́мович Пешко́в)。ペンネームのゴーリキーとはロシア語で「苦い」の意味。社会主義リアリズムの手法の創始者であり、社会活動家でもあった。

幼くして孤児となり、極貧の放浪生活を送るうちに革命運動に接近。社会主義リアリズム文学の創始者として活躍した。社会の底辺の人々の生活苦を描いた戯曲『どん底』が代表作。作品に、革命を予告したとされる散文詩『海燕の歌』、小説『母』など。

生涯

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ニジニ・ノヴゴロドに、家具職人の子として生まれる。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシア国内の各地へ職を転々としながら放浪する。

その後、地方新聞の記者となる。1892年トビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗った。1895年、『チェルカシュ』を大衆雑誌『ロシアの富』に発表。1898年にはサンクトペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行し、一躍人気作家になった。1899年、散文詩『26と1』、最初の長編物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。その名声はたちまちアントン・チェーホフレフ・トルストイと比されるまでになった。1902年、代表作である『どん底』を発表し、同年モスクワコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出で上演され、翌1903年ベルリンでも上演された。

1902年には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由にニコライ2世によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフとウラジミール・コロレンコがアカデミーを辞任している[1]1905年ボリシェヴィキ組織に入り、レーニンの知遇を得る。1905年から1907年までの革命には、ゴーリキーが巨額の援助をしたとされる。

第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。1919年、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。1921年結核の療養のためイタリアソレントに移り住んだ。

アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、ゴーリキーのロシアへの帰還は、イタリアでの暮らしに困ってのことだった。ソレントで、ゴーリキーは貧しくみじめな暮らしを余儀なくされた。1928年以降、何度かソビエト連邦を訪れるようになり、1932年にはスターリンの個人的な求めに応じてロシアに帰った。

ファシスト政権のイタリアからゴーリキーが戻ったのは、ソビエト政府にとっては格好の宣伝材料となった。彼はレーニン勲章を受け、モスクワの邸宅(現在はゴーリキー博物館となっている)と郊外の別荘を贈られる。このとき、モスクワのトゥヴェルスカヤ通りゴーリキー通りと改められ、生地のニジニ・ノヴゴロド市もゴーリキー市と改称された(1990年まで)。ゴーリキーはソビエト作家同盟を設立し、その議長に就任する。白海・バルト海運河の工事を視察し、他の作家たちと共に『スターリン記念白海・バルト運河―1931-1934年の建設の歴史』を1934年に編纂した。ここでは、運河工事を全面的に称賛し、工事従事者を完全に犯罪者扱いするなど、完全にスターリンの盲従者としての姿勢を披露している[2]

1934年、セルゲイ・キーロフが死に、スターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーは自宅に軟禁されるようになった。1935年、息子マクシム・ペシコフを亡くした翌年、1936年6月18日にモスクワ郊外のゴルカノ別荘で病気静養中に没する。同年6月20日には赤の広場で国葬が行われ[3]荼毘に付された後、クレムリンの壁墓所に葬られた[4]

本人と息子には死亡直後から毒殺された疑いがささやかれたが、確実なことは分かっていない。 1938年3月、第三回モスクワ裁判の過程で被告の医師がゴーリキーの毒殺を認めたが[5]、裁判の性格上、信憑性に乏しい。

ソ連崩壊後は、上記の運河建設礼賛などスターリンへ盲従した点を厳しく批判されている[2]

作品

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小説
  • マカル・チュドラ(1892年)
  • チェルカシュ(1895年)日本語訳:咫折『放浪』、世界婦人(1908年)
  • フォマ・ゴルデーエフ(1899年)
  • 母(1907年)… 1926年にフセヴォロド・プドフキン監督により映画化される[6]
戯曲
叙事詩

脚注

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  1. ^ 「チェーホフ」(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物5)p339-340 ヴィリジル・タナズ著 谷口きみ子・清水珠代訳 祥伝社 2010年12月20日初版第1刷発行
  2. ^ a b 勝野金政のゴーリキー批判藤井一行
  3. ^ 赤色広場で国葬『大阪毎日新聞』昭和11年6月20日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p197 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 遺骨を冬宮の壁に埋める『中外商業新報』昭和11年6月21日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p198)
  5. ^ ゴリキー毒殺、実行の医師が陳述『東京朝日新聞』昭和13年3月9日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p345-346)
  6. ^ J・アンネンコフ『同時代人の肖像 上』現代思潮社、1971年、38頁。 

関連項目

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外部リンク

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