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ラーマ7世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポッククラオ王から転送)
ラーマ7世
รัชกาลที่ ๗
シャム国王
ラーマ7世
在位 1925年11月25日 - 1935年3月2日
戴冠 1926年2月25日、於大宮殿
全名 พระบาทสมเด็จพระปรมินทรมหาประชาธิปก พระปกเกล้าเจ้าอยู่หัว
別名 ประชาธิปก
プラチャーティポック
王朝 チャクリー王朝
出生 (1893-11-08) 1893年11月8日
シャムバンコク
死亡 (1941-05-30) 1941年5月30日(47歳没)
イギリスの旗 イギリスイングランドサリー
埋葬 1949年
タイ王国の旗 タイバンコク大宮殿
ラーマ5世
サオワパー・ポーンシー
配偶者 ラムパイパンニー
(1918年-1941年)
居所 大宮殿
宗教 上座部仏教
親署

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称号:国王
敬称 陛下
His Majesty the King
พระบาทสมเด็จพระเจ้าอยู่หัว

ラーマ7世タイ語: รัชกาลที่ ๗1893年11月8日 - 1941年5月30日)は、チャクリー王朝の第7代のシャム国王。通称はポッククラオであり、幼名をプラチャーティポックサックディデート ( タイ語: ประชาธิปกศักดิเดชน์, ラテン文字転写: Prajadhipok Sakdidej ) というため、その一部を取ってプラチャーティポックタイ語: ประชาธิปก, ラテン文字転写: Prajadhipok)とも呼ばれる。タイにおける最後の絶対君主であり、最初の立憲君主である。

生涯

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モノグラム
印章

プラチャーティポックはバンコク王宮で、ラーマ5世パッチャリン妃の間に生まれた。イギリスイートン・カレッジ、ウーリッジ士官学校フランス陸軍大学校(ESG)で学び、1918年ラーマ4世の孫で従妹のラムパイパンニー王女と結婚。1924年の帰国後は短期間ながら軍人として働いていた。プラチャーティポックは国王になった後もこのときに軍人であったことを誇りにしていた。

本来であれば国王になる予定ではなかったが、兄のラーマ6世に成人した子供がいなかったため、ラーマ6世が崩御すると異母弟であったプラチャーティポックが急遽王位に就くことになった。予期せぬ即位で、ラーマ6世が持っていた様な政治的基盤を築く暇がなかったため、政治的基盤が薄く、ラーマ7世は旧勢力の王族と、官僚の間で苦悶することとなった。

ラーマ7世は先王の代に抱え込んだ負債の処理に即位後すぐに直面した。この事態の打開を計るため5人からなる最高顧問会議を開き、全力で問題を解決しようとしたが、アメリカ世界恐慌に見まわれたため、悪化していた国家財政がどん底まで悪化した。そこで、王室費用を900万バーツから最終的に300万バーツに切りつめる「合理化」を行った。ラーマ7世はついでに官僚の人事も「合理化」したため官僚、なかんずく民主的な雰囲気の中で教育されたフランス留学組官僚の怒りを買った。この合理化に対する危機感は、後に人民党を生み出した。

ラーマ7世は1931年眼病手術のためアメリカを訪れた時から、議会制導入を考えるようになった。そのための憲法草案を作成し、いざ発表する段階になると、最高顧問会議のメンバーを中心とする王族の猛烈な反対に遭い断念した。これに業を煮やした陸軍大佐パホンポンパユハセーナー伯爵、陸軍少佐ピブーンソンクラーム男爵プラディットマヌータム男爵率いる人民党が、ラーマ7世がフワヒンへ療養に出かけている最中に立憲革命を起こし、1932年ラーマ7世に憲法を発布させた。これにより、ラーマ5世以来続いた絶対君主制に終止符が打たれた。

しかし、新政府は王政を廃止せず、代わりに国王の承認を権力のよりどころとする立憲君主制を導入したため、ラーマ7世は翌年、目の病気を理由にイギリスへ逃亡した。国王の承認をよりどころにしていた新政府は、国王の承認を取り付けるためイギリスまで行かねばならず、事務の円滑な処理が出来なかったので、ラーマ7世にタイへ戻るように頼んだが、ラーマ7世は拒否し続けた。その後、いつまで経っても民主制に移行しようとしないパホン政権に抗議するために1935年に自らの意志で退位した。そのままイギリスで不遇なまま過ごしたが、1941年ウェールズポーイスにあるレイク・ヴィルヌイ・ホテルで心臓発作により崩御した。遺骨は1949年にタイへ帰還した。

1924年、ラムパイパンニー妃とともに来日し、高徳院で兄・ラーマ6世植樹の黒松を鑑賞。1931 年 4 月には、眼病治療のためカナダ太平洋汽船(カナディアン・パシフィック・ライン)の客船エンプレス・オブ・ジャパンにて渡米する際、ラムパイパンニー王妃と日本を非公式訪問した。国王として初来日であり、国家元首の来日は 1881年のハワイ王国カラカウア王以来50年ぶりで、霞ヶ関離宮を宿所とした。4月6日神戸港に寄港し、4月7日横浜港に上陸。4月8日には天皇皇后と会見し、同日晩には、幣原喜重郎外務大臣歌舞伎座招待に応じ、歌舞伎のほかインド叙事詩「ラーマーヤナ」を元にしたシャム古典史劇の一節『奪われし我が愛しの妻よ』を鑑賞した。4月9日は鎌倉高徳院を再訪し植樹。明治神宮靖国神社にも参拝している。同年9月26日、米国からの帰途にも日本に立ち寄り、名古屋市の日暹寺(現在の日泰寺)を参詣した。

ラムパイパンニー王妃は太皇太后となった1954年1970年1972 年にも日本を訪れている。

王族称号

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  • 1893年-1906年: プラチャーティポック・サックディデート王子殿下
  • 1906年-1925年: スコータイ公プラチャーティポック王子殿下
  • 1925年-1935年: マハープラチャーティポック国王陛下
  • 1935年-1941年: スコータイ公プラチャーティポック王子殿下

ギャラリー

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系譜

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ラーマ7世の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. (=24.) ラーマ1世
 
 
 
 
 
 
 
8. (=12.) ラーマ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. (=25.) アマリン
 
 
 
 
 
 
 
4. (=6.) ラーマ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. (=26.) ゲン・セータン (陳)
 
 
 
 
 
 
 
9. (=13.) シースリエン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. (=27.) ゲオ
 
 
 
 
 
 
 
2. ラーマ5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. ラーマ3世
 
 
 
 
 
 
 
10. シリウォン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. サブ・シリサムパン
 
 
 
 
 
 
 
5. テブシリン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. ブット
 
 
 
 
 
 
 
11. ノイ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. ジェーム
 
 
 
 
 
 
 
1. ラーマ7世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. (=16.) ラーマ1世
 
 
 
 
 
 
 
12. (=8.) ラーマ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. (=17.) アッマリン
 
 
 
 
 
 
 
6. (=4.) ラーマ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. (=18.) ゲン・セータン (陳)
 
 
 
 
 
 
 
13. (=9.) シースリエン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. (=19.) ゲオ
 
 
 
 
 
 
 
3. サオワパー・ポーンシー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14. テング・スジャリッイタグン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. ピヤマ・スジャリッイタグン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15. ナーク・スジャリッイタグン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

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関連項目

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