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ホルヘ・マヌエル・テオトコプリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ホルヘ・マヌエル・テオトコプリ
Jorge Manuel Theotocópuli
父エル・グレコによる『ホルヘ・マヌエル・テオトコプリの肖像』(1597-1603年頃)、セビーリャ美術館
生誕 1578年
スペイン帝国トレド
死没 1631年3月28日
スペイン帝国、トレド
著名な実績 絵画、彫刻、建築
影響を受けた
芸術家
エル・グレコ

ホルヘ・マヌエル・テオトコプリ、もしくはホルヘ・マヌエール・テオトコプーロススペイン語:Jorge Manuel Theotocópuli, ギリシャ語:Χόρχε Μανουέλ Θεοτοκόπουλος, 1578年 - 1631年3月28日[1])は、16世紀および17世紀スペインの画家、建築家。エル・グレコの息子。

概要

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幼少期は母親のヘロニマ・デ・ラス・クエバスの元で育ったと考えられている[1]が、ある年以降は父親に学び、絵画や彫刻、建築[注釈 1]などの制作を行った。彼の活動は大きく二期に分かれ、前期は父の工房の協力者として働いたものである。1603年以降[3]テオトコプリは父親の工房で活動し、やがて個人でもティトゥルシア英語版の祭壇画などを請け負うようになった[3]。前期に比べ後期は絵画制作の数も減り、その原因は彼や彼の父が作り出した絵画よりさらに具体的な絵画が現れたためと考えられている[4]。彼の絵画的なキャリアはそこまで注目すべき点はないとされる[5]が、彼の功績は建築で見られ、トレドで市庁舎やトレド大聖堂を始めとした重要な建築及び彫刻に携わった[5]。また、トレドの知識人たちに支えられた父親と異なり、トレドの街の公的な依頼が多かった[1]。1614年のグレコの死後以降は建築に注力し、トレド大聖堂の棟梁の地位を得て、第八チャペルの丸天井の設計及び天井のフレスコ画の塗装[6]、モサラベ様式[注釈 2]のチャペルの丸天井などの建設と同時に、トレド市庁舎の施工を行った[3]。 彼は生涯三度[注釈 3]の結婚をし、何人かの子供を残した[1]が、最終的にはタベーラ施療院にて貧困のうちに一生を終えた[3]。彼の死後翌日にサントルカト英語版の修道院に埋葬された[1]

代表作

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絵画

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  • 『祈るアッシジの聖フランシスコ』1600-1605年頃、トレド、レルマ家所蔵

建築

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脚注

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注釈

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  1. ^ トレド市庁舎を竣工した、と紹介されている[2]
  2. ^ スペインにおける中世キリスト教美術の様式の一つ。イスラム美術と伝統的なキリスト教美術の融合という特徴の他、東方的美術の特徴が色濃く出ている[7]
  3. ^ 二度とする資料もある[3]が、本稿では三人の妻の名前が出ている資料[1]に基づいて記載するものとする。

出典

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参考資料

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文献

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  • 西武美術館; 朝日新聞社 著、西武美術館 編『スペイン美術展〈1〉16・17世紀エル・グレコ、ベラスケスの時代』西武美術館、東京都、1985年。ASIN B000J6L48W 
  • (日本語版)『スペイン トレド』(プレスリリース)スペイン政府観光局、2011年。「竣工したのはホルヘ・マヌエル・テオトコプリ、つまり画家グレコの息子」 

ウェブページ

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外部リンク

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