ヘンリク・パフルスキ
ヘンリク・パフルスキ Henryk Pachulski | |
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基本情報 | |
別名 |
Гейнрих Альбертович Пахульский (Geinrikh Albertovich Pakhulsky) |
生誕 |
1859年10月16日 ポーランド立憲王国ワジ村 |
死没 |
1921年3月2日 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ |
職業 | ピアニスト、作曲家、音楽教師 |
ヘンリク・パフルスキ(ポーランド語: Henryk Pachulski、1859年10月16日 - 1921年3月2日)は、ポーランド出身で主にロシア帝国で活動したピアニスト、作曲家、音楽教師。ロシアでの表記は「Гейнрих Альбертович Пахульский(Geinrikh Albertovich Pakhulsky、ゲインリフ・アルベルトヴィッチ・パフリスキー)」。
略歴
[編集]チャイコフスキーのパトロンとして知られるナジェジダ・フォン・メックの領地で森番を務めていたアルベルト・パフルスキの息子として、現在のポーランド(当時はポーランド立憲王国)東部、ルブリン県ワジ村に生まれる。フォン・メックに感化され、ヘンリクはワルシャワ音楽院に入学、ルドルフ・ストローブルやスタニスワフ・モニューシュコ、ヴワディスワフ・ジェレンスキに師事し、1876年に卒業する。その後、1880年にニコライ・ルビンシテインのモスクワ音楽院に入学、ルビンシテインの死後はアレクサンドル・ミハウォフスキやパーヴェル・パプスト、アントン・アレンスキーに師事し、1885年に卒業する。1886年からは同音楽院で教鞭をとるようになり、1916年に教授となる。パフルスキの教え子にはレインゴリト・グリエールやフセヴォロド・ザデラツキーなどがいる。
創作
[編集]ヘンリク・パフルスキは作曲家としても活動していた。また作曲に加え、チャイコフスキーの多くの作品をピアノの連弾向けに編曲している。その中には交響曲第4番、第5番、第6番があり、これらの編曲はチャイコフスキーに評価されている。
彼が作曲したピアノソナタ第1番ハ短調作品19はアレンスキーに、ピアノソナタ第2番ヘ長調作品27はセルゲイ・ラフマニノフに捧げられている[1]。
家族
[編集]兄ヴワディスワフ・パフルスキ(1857年 - 1919年)は、チャイコフスキーのパトロンだった未亡人ナジェジダ・フォン・メックに楽士として雇われる。その後、彼女の個人秘書を務め、彼女の娘ユリヤ(1853年 - 1915年)と結婚している。また、彼はチャイコフスキーとフォン・メック夫人との関係を壊した張本人と見られている。
参考文献
[編集]- ^ Grove's Dictionary of Music and Musicians, 5th ed, 1954, Vol. VI, p. 479, Pachulski, Henryk
外部リンク
[編集]- ヘンリク・パフルスキの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- Henryk Pachulski - Tchaikovsky Research