フメリニツキー
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(プロスクーリウから転送)
フメリニツキー | |||
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フメリニツキー | |||
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フメリニツキーの位置 | |||
座標:北緯49度25分 東経27度00分 / 北緯49.417度 東経27.000度 | |||
国 | ウクライナ | ||
州 | フメリニツキー州 | ||
ラヨン | フメリニツキー地区 | ||
建設 | 1434年 | ||
面積 | |||
• 合計 | 90 km2 | ||
人口 (2021年)[1] | |||
• 合計 | 274,582人 | ||
• 密度 | 2,822人/km2 | ||
等時帯 | UTC+2 (EET) | ||
• 夏時間 | UTC+3 (EEST) | ||
郵便番号 |
29000 | ||
市外局番 | +380 382 | ||
ナンバープレート | АА | ||
ウェブサイト |
www |
フメリニツキー(ウクライナ語: Хмельни́цький[2] [xmeʎˈn̪ɪt͡sʲkɪi̯] ( 音声ファイル) フメリヌィーツィキイ)は、西ウクライナに位置する都市で、フメリニツキー州の州庁所在地である。
呼称
[編集]歴史上では、プロスクーリウ(ウクライナ語: Проску́рів )、プロスクーロフ(ロシア語: Проску́ров )、プロスクィーリウ(ウクライナ語: Плоски́рів )、プロスクィーロヴェツィ( Плоскировець )またはプロスクィーリウツィ( Плоскирівці )、プウォスキルフ(ポーランド語: Płoskirów )とも呼ばれた。
地理
[編集]フメリニツキーは、フメリニツキー州の中部、南ブーフ川の川岸に位置している。
歴史
[編集]- 1431年:ポーランド王国のプロスクィーロヴェツィ村が初めて史料に登場する。
- 1434年:プロスクィーロヴェツィ村はプウォスキルフ町となる。
- 1648年‐1657年:フメリニツキーの乱によりプウォスキルフ町は破壊される。
- 1672年‐1699年:プウォスキルフ町はオスマン帝国に占領される。
- 1795年:プウォスキルフ町はロシア帝国の領土となり、「プロスクーロフ市」に改名されてプロスクーロフ郡の中央都市となる。
- 1917年:ウクライナ人民共和国の領土となる。
- 1920年:ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土となる。
- 1941年:カームヤネツィ=ポジーリシクィイ州が設置され、プロスクーリウ町は当州の州庁所在地となる。
- 1954年:「フメリニツキー」に改名される。
- 1991年:ウクライナが独立する。市は、フメリニツキー州の州庁所在地となる。
- 2023年:前年から続くウクライナ侵攻では直接交戦はなかったものの、3月22日[3]には何らかの攻撃を受けて市内で爆発が生じた。
人口
[編集]2021年ウクライナの国勢調査によると人口は推計で274,582人[1]。
姉妹都市
[編集]- モデスト、アメリカ合衆国 1987年
- シリストラ、ブルガリア 1992年
- ボル、セルビア 1995年
- バルツィ、モルドバ 1996年
- en:Ciechanów、ポーランド 1996年
- en:Kramfors、スウェーデン 1997年
- 石家荘市、中国 1998年
参考文献
[編集]- 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12. (新版世界各国史 ; 20)
- Історія міст і сіл Укр. РСР. Київ, 1972.
注
[編集]- ^ a b “Чисельність наявного населення України на 1 січня” (PDF) (ウクライナ語). Державна служба статистики України. p. 44 (2021年). 2022年6月11日閲覧。
- ^ 「ボフダン・フメリニツキーの町」を意味している。
- ^ “ロシア、ウクライナ各地を攻撃 岸田首相の訪問中、西部で爆発音”. 産経新聞 (2023年3月23日). 2023年5月14日閲覧。
- ^ 2001年のウクライナ国勢調査