ブラッディ・ナイフ
ブラッディ・ナイフ | |
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Bloody Knife | |
生誕 | 1840年ごろ ダコタ準州 |
死没 | 1876年6月25日 1876年(35 - 36歳没) モンタナ州 |
墓地 | レッド・クラウド墓地 サウスダコタ州 |
所属組織 | アメリカ |
部門 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1868–76 |
最終階級 | インディアン斥候隊 |
部隊 | 第7騎兵連隊 |
戦闘 | インディアン戦争 |
ブラッディ・ナイフ(英語:Bloody Knife、スー語:Tȟamila Wewe、アリカラ語:NeesiRAhpát、1840年? - 1876年6月25日)は、インディアンの戦士。第7騎兵連隊に斥候隊として所属し、著名なジョージ・アームストロング・カスター中佐のお気に入りで、「アメリカ軍に仕えた最も有名なインディアン」の一人とされる[1][2]。
経歴
[編集]幼年期
[編集]正確な生年月日は不明であるが、1837年から1840年の間に、ブラッディ・ナイフはダコタ準州で生まれた。ブラッディ・ナイフの父はハンクパパ氏に属するスーであり、母はアリカラの出であった。ブラッディ・ナイフは最初、スーの集落で暮らしていたが、スーとアリカラは互いに敵対していたため、アリカラの母を持つブラッディ・ナイフは、スーの中で差別を受けた。そうした生い立ちから、彼を差別した戦士シッティング・ブルの義兄弟にして同年代のゴール(インディアン名:ピジ)を特に憎むようになった。ブラッディ・ナイフは15歳前後で、母親が夫を後にしてスーの集落を離れ、アリカラの集落に戻る際に同行して移住した。移住後、ブラッディ・ナイフはアメリカ毛皮公社のフォート・クラーク交易所で働いた[1][2]。
スーとアリカラの対立は日常茶飯事であり、ときに流血を伴った。ブラッディ・ナイフは、ある日、父の元を訪問したが、そこでは客人としての扱いを受けず、ゴールや彼の取り巻きから襲撃を受け、銃で殴りつけられ、嘲笑された。さらに、1862年には、ゴールが率いたスーの襲撃によって、ブラッディ・ナイフの兄弟たちは殺された。その死体は狼の餌にするために、地面に撒かれた[2][3][4][5]。
斥候隊として
[編集]1865年、ブラッディ・ナイフはアメリカ軍に雇われた。ブラッディ・ナイフの上官は、アルフレッド・サリーであった。ブラッディ・ナイフは伝令兵として働いた。1865年の末、ブラッディ・ナイフは宿敵であるゴールが、白人を殺したという話を聞いた。アメリカ軍は、ゴールを捕縛するか、あるいは殺害するために部隊を派遣するところであった。ブラッディ・ナイフは、この派遣に参加し、ゴールが住まいとしていた集落へと部隊を案内した。ゴールはこのとき、追い詰められはしたものの、逃げ延びた。伝説的な話ではあるが、ゴールは兵士によって銃剣で二度刺されたが、これで死んだと誤解したアメリカ軍が去った後、息を吹き返したという話が残っている。この伝説では、ブラッディ・ナイフはゴールに銃を撃ち込もうとしたが、すでに死んでいると誤解したアメリカ軍兵士に止められたという。ブラッディ・ナイフは執拗に「ゴールは死んでいない」と抗議したが、聞き入れられたなかった[1][2][5]。ただし、ゴールがシッティング・ブルと仲違いして、彼を殺そうとしたときに、同じような流れの話が出てくるため、この話は作り話の可能性も高い[3]。
1866年、アンドリュー・ジョンソン大統領は、インディアン斥候隊を正式に軍に組み込むという案を承認した[6]。ブラッディ・ナイフはこのとき、正式に斥候隊に入隊した。伍長待遇であった。しかし、ブラッディ・ナイフはアルコール依存症の問題を抱えており、仕事ぶりに問題があったという記録が残っている。それでも、1872年には下士官(英:Lance corporal、軍曹あるいは准尉に近い階級)に昇進した。
1873年、ブラッディ・ナイフは、フォートライスという地で、ジョージ・アームストロング・カスターと出会う。二人は意気投合し、カスターはブラッディ・ナイフの斥候としての能力を称賛した。ブラッディ・ナイフは横柄な性格であったが、カスターはその横柄な態度を、率直であると気に入った。しかし、カスターは気性が荒く不安定なところがあり、1874年にはブラッディ・ナイフを銃で撃った事がある。しかし、カスターは時折、ブラッディ・ナイフの名前が刻まれたメダルなどをワシントンに注文し、彼に贈るほど、ブラッディ・ナイフを気に入っていた。ブラッディ・ナイフもその期待に応え、スーの集落を発見しては、カスターに報告し、戦いを有利に導いた[2][3][1]。
1874年、カスターはブラックヒルズの遠征を遂行した。この遠征には1000人以上の歩兵、騎兵に加え、地質学者や鉱夫、記者などが加わっていた。さらに、ブラッディ・ナイフも含む65人のアリカラの斥候隊も含まれていた[7][自主公表]。なお、この遠征の前には、ゴールが率いたスーの戦士団が、アリカラの集落を襲撃しており、ブラッディ・ナイフの息子を含む住民を殺している。ブラッディ・ナイフたちアリカラの男は、復讐に燃えていた。この土地は、オグララ・スーの集落が多い地であった。しかし、カスターにとってインディアン同士の争いなどは瑣末事であった。この遠征では、ブラッディ・ナイフたちがスーの集落を見つけたときに攻撃しようと行動を起こしたが、カスターは、この調査ではインディアンを殺すことより、金鉱を探る方が重要であると考えていた。このため、カスターはブラッディ・ナイフに、スーから攻撃を受けない限り、こちらからを攻撃しないよう命じた[8][9][10]。
1874年8月7日、カスターたちは野営ができる場所を探していると、一頭の巨大なハイイログマに遭遇した。狩猟が趣味であったカスターは、ハイイログマを撃つことを生涯の夢としており、このとき、その夢を実現した。ブラッディ・ナイフや、ウィリアム・ラドローも、その狩りを手伝った。いくつかの記録によれば、そのクマに止めを刺したのは、カスターではなくブラッディ・ナイフであったという[8][9]。
他のアリカラの斥候が月給13ドルを受け取っていたのに対し、ブラッディ・ナイフは月に75ドルを受け取っていた。さらに、遠征の成果を受けて、ボーナスとして150ドルを受け取った[4][10][2]。
リトルビッグホーンの戦い
[編集]1876年、リトルビッグホーンの戦いが起こった。戦いの前、敵陣を偵察していたブラッディ・ナイフは、スー、シャイアン、アラパホの連合軍が野営地を発見したが、そこに建てられたティピーの数は膨大であった。ブラッディ・ナイフは偵察から戻ったとき「自軍に比べて、敵の数があまりに多すぎる」とカスターに警告した。ブラッディ・ナイフ以外の斥候も、同様の報告をした。副官マーカス・リノら白人たちも、懸念を示した。しかし、カスターはこの忠告に耳を貸さず、撤収する事なく戦いに突き進んだ。ある伝説では、ブラッディ・ナイフは戦いに望む前、太陽を仰ぎ見て「私は、今日、日が丘の向こうに落ちるのを見ることはできないだろう」と呟いたという[3]。ブラッディ・ナイフは、マーカス・リノの部隊に配属された。リノは、ブラッディ・ナイフたちアリカラと、アリカラと同じくスーと敵対していたクロウの斥候隊に、攻撃を命じた。しかし、ブラッディ・ナイフたちが懸念していた通り、数の差は圧倒的であり、リノの部隊は押されだした。この戦いが始まってそれほどの時間もたたないうちに、ブラッディ・ナイフは頭部を撃たれた。即死であった[1][12][1][6]。
ブラッディ・ナイフの真隣にいたリノは、ブラッディ・ナイフから吹き出した血をまともに浴びたという。混乱したリノは退却を命じた。退却は成功したが、混乱状態で発せられた命令は、部隊の混乱をも引き起こし、多くの兵が犠牲となった[13]。カスターの部隊は、より酷い被害であり、カスター自身も戦死するなど、アメリカ軍は大きな敗北を喫した[14]。
デビッド・ハンフリーズ・ミラーの手記によれば、戦いの生還者や目撃者、ブラッディ・ナイフの遺族は「ゴールがブラッディ・ナイフを殺した」と主張したという。ただし、この戦にゴールが参加していたことは事実だが、彼の手記以外に、ゴール自らがブラッディ・ナイフを殺したという記録は出てこない。その後、ジョン・ギボンの部隊が到着し、リノの部隊は九死に一生を得た。ギボンの部隊は、空となったスーの住まいの中で、ブラッディ・ナイフの頭皮を発見した[1][2]。これらの遺物は1876年6月27日に戦場に埋葬された。その後、彼はノースダコタ州ホワイトシールド近くの斥候隊の墓地に、新たに埋葬された[15]。
遺産
[編集]ブラッディ・ナイフは、1866年、Owl(フクロウ)という名を持つ同じアリカラの女性と結婚した。少なくとも、3人の息子と、2人の娘が知られている。娘の一人は1870年12月28日に病死し、息子の一人は前述通り、1874年にゴールたちスーの襲撃を受けて殺されている。1879年4月14日、Owlは未払いの賃金を受け取るように主張し、1881年、アメリカ政府からブラッディ・ナイフの最後の賃金91.66ドルを受け取ったという記録が残っている[3][8]。
宿敵のスーと戦ったブラッディ・ナイフは、アリカラの間で有名となり、アリカラには彼を称える歌が作られた。また、ブラッディ・ナイフは有名なインディアン斥候隊の一人となり、テレビドラマや映画などで描かれることもある[16]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g Hatch, Thom (2002). The Custer companion: A Comprehensive Guide to the Life of George Armstrong Custer and the Plains Indian Wars. Stackpole Books. pp. 114–115. ISBN 0-8117-0477-7
- ^ a b c d e f g Logt, Mark Van de (2011). Tucker, Spencer C.. ed. The Encyclopedia of North American Indian Wars, 1607–1890: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. pp. 78–79. ISBN 978-1-85109-697-8
- ^ a b c d e Connell, Evan S. (1984). Son of the Morning Star. North Point Press. pp. 12–18, 102, 211, 272, 379.. ISBN 0-86547-510-5
- ^ a b Donovan, James (2008). A Terrible Glory: Custer and The Little Bighorn—The Last Great Battle of the American West. リトルブラウンアンドカンパニー. ISBN 978-0-316-02911-7
- ^ a b Larson, Robert W. (2007). Gall: Lakota War Chief. オクラホマ大学出版. pp. 55–56. ISBN 978-0-8061-3830-5
- ^ a b Cowan, Wes. “Sticks and Stones Can Break Your Bank”. トゥルーウェストマガジン. 4 April 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。28 October 2011閲覧。
- ^ Mitchell, Steven T. (2011). Nuggets to Neutrinos. Xlibris. pp. 94–95. ISBN 978-1-4568-3947-5
- ^ a b c Elliott, Michael A. (2007). Custerology: The Enduring Legacy of the Indian Wars and George Armstrong Custer. シカゴ大学出版局. pp. 160–161. ISBN 978-0-226-20147-4
- ^ a b Powers, Thomas (2010). The Killing of Crazy Horse. ランダムハウス. pp. 81–82. ISBN 978-0-375-41446-6
- ^ a b Thackeray, Lorna. “Fate, feuds led Bloody Knife, Custer's close friend, to Battle of the Little Bighorn”. ビリングスガジェット. 21 October 2011閲覧。
- ^ Lehman, Tim (2010). Bloodshed at Little Bighorn: Sitting Bull, Custer, and the Destinies of Nations. ジョンズ・ホプキンズ大学出版. pp. 74–75. ISBN 978-0-8018-9500-5
- ^ Nichols, Ronald Hamilton (1999). In Custer's shadow: Major Marcus Reno. オクラホマ大学出版. p. 180. ISBN 0-8061-3281-7
- ^ Tucker, Spencer C. (2011). The Encyclopedia of North American Indian Wars, 1607–1890: A Political, Social, and Military History. ABC-CLIO. p. 35. ISBN 978-1-85109-697-8
- ^ Campbell, Ballard C. (2008). Disasters, Accidents, and Crises in American History: A Reference Guide to the Nation's Most Catastrophic Events. インフォベース出版. pp. 142–143. ISBN 978-0-8160-6603-2
- ^ Browning, James A. Violence Was No Stranger (1993). Barbed Wire Press. ISBN 0-935269-11-8.
- ^ “Rich Saga "Morning Star" Sheds Some Light on Custer”. フレズノ・ビー. (1 February 1991) 13 November 2011閲覧。