ブラ-ケット記法
ブラ-ケット記法(ブラ-ケットきほう、英: bra-ket notation)またはディラックの記法[1](ディラックのきほう、英: Dirac notation)は[注 1]、量子力学における量子状態を記述するための標準的な記法である。
ブラケット(bra-ket)という呼称は、量子状態をブラ(bra) ⟨φ| とケット(ket) |ψ⟩ と呼ばれる2つのベクトルで表すこと、またブラとケットの内積 ⟨φ|ψ⟩ が括弧(bracket)を成すことに由来する。
ブラケット記法は1939年のポール・ディラックの論文(Dirac 1939)で提案された。ディラックの教科書 the principles of quantum mechanics では1947年の第3版からブラケット記法を採用している[2]。
ブラ・ケット
[編集]ブラ ⟨φ| はケット |ψ⟩ のなすベクトル空間の双対空間の元として定義される。ケットをケットへ写す線型な関数(線型作用素)を で表し、ケットに対する適用を と表す。ブラケット記法において、以下の関係を満たすブラへの作用素は、ケットに対する作用素と同じ記号で表される。
通常、上記の内積は括弧を外して と表される。 また特に任意のケット |ψ⟩ に作用してケット |η⟩⟨ξ|ψ⟩ を与える作用素は |η⟩⟨ξ| と表される。また同様のブラに対する作用素も同じ記号で |η⟩⟨ξ| と表される。
性質
[編集]ブラの随伴はケット、ケットの随伴はブラである。
また、ある状態 において、観測可能量 の期待値はブラ ⟨ψ| とケット |ψ⟩ の内積 として表される。
初学者向けの説明として、ケットは列ベクトル、ブラは行ベクトルに対応させる場合がある(行列表示を参照)。
利点と欠点
[編集]この記法の利点として
- 基底に依存しない記述が可能
- 固有値が離散、連続どちらの場合も統一的に扱える
- 中身の書き方を自由に工夫して記述できる(パラメータだけを並べて |n, l, m⟩ としたり、|生きている猫⟩ と書くこともできる)
などがある[3]。
無限次元での取り扱い
[編集]ディラックの説明によればケット |ψ⟩ の空間においてブラ ⟨φ| は線形汎関数を表す、すなわちブラは双対空間に属しており、無限次元の場合ブラの空間はケットの空間より広い場合がある。しかし、ブラの空間にはケットの空間と同型の部分空間が必ず存在し、ケットの内積は常に定義できる。量子力学においては、ケットもブラも量子状態を過不足なく表すもので、ケットに対応しないブラには物理的意味がないので、ブラの空間としてはケットの空間と同型のものしか考えない。
正規直交基底とブラケット記法
[編集]正規直交基底のうち2つのラベルを α, β として、内積をブラ-ケット記法で表すと、離散基底ではクロネッカーのデルタを用いて
連続基底ではデルタ関数を用いて
となる。
また正規直交基底の完全性は離散基底について、
連続基底について、
と表現される。ただし連続基底の場合の記述は数学的に逸脱があり、本来ヒルベルト空間の元として存在しない「固有ベクトル」 があるかのように書いている[4](量子力学の数学的定式化#スペクトル分解と観測も参照)。
第二量子化とブラケット記法
[編集]と定義する。この時 a† がフェルミ粒子を表す演算子なら、これらは反交換関係 {a †
α , a †
β } = 0 を満たすので、
となり、反対称化されている。
また a† がボース粒子を表す演算子であれば、これらは交換関係 [a †
α , a †
β ] = 0 を満たすので、
となり、対称化されている。
波動関数との関係
[編集]ケット |ψ⟩ と、(位置表示の)波動関数 ψ(x) の関係は以下のように表される[5]。
ただし、位置を表す演算子 の固有値を x 、対応する固有ケットを |x⟩ とする;。
出典
[編集]- ^ Dirac 1968.
- ^ Dirac 1947, PREFACE TO THIRD EDITION.
- ^ 北野 2013.
- ^ 原 2009, p. 9, 3.1.1 Dirac の記法と三つ組み.
- ^ 北野 2010, pp. 95–96.
注釈
[編集]- ^ 以下、本稿では「ブラケット記法」と呼ぶ。
参考文献
[編集]- Dirac, P. A. M. (1939-07). “A new notation for quantum mechanics”. Mathematical Proceedings of the Cambridge Philosophical Society 35 (3): 416–418. doi:10.1017/S0305004100021162.
- Dirac, P. A. M. (1947). The principles of quantum mechanics (3rd ed.). Oxford University Press
- Dirac, P. A. M. (1967). The principles of quantum mechanics. The international series of monographs on physics (4th (revised) ed.). Oxford University Press
- Dirac, P. A. M. 著、朝永振一郎 他 訳『量子力学』(原著第4版)岩波書店、1968年。
- 北野, 正雄『量子力学の基礎』共立出版、2010年1月23日。ISBN 978-4-320-03462-4。
- 北野, 正雄「誤解されているブラケット:共役演算子をめぐって」『日本物理学会誌』第68巻第4号、日本物理学会、2013年4月5日、239-241頁、CRID 1390282763028514816、doi:10.11316/butsuri.68.4_239、hdl:2433/173934、ISSN 0029-0181。
- 原, 隆 (17 December 2009). "数学者のための量子力学入門" (PDF). www2.math.kyushu-u.ac.jp/~hara. 2023年1月5日閲覧。