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ピーター・バーンサイド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピート・バーンサイド
Pete Burnside
ワシントン・セネタース時代
(1961年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州クック郡エバンストン
生年月日 (1930-07-02) 1930年7月2日
没年月日 (2022-08-26) 2022年8月26日(92歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1949年 ニューヨーク・ジャイアンツと契約
初出場 MLB / 1955年9月20日
NPB / 1964年3月24日
最終出場 MLB / 1963年9月23日
NPB / 1965年10月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ピーター・ウィリッツ・バーンサイドPeter Willits "Pete" Burnside1930年7月2日 - 2022年8月26日[1])は、アメリカ合衆国イリノイ州クック郡エバンストン出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

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ダートマス大学卒業後、ニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)に入団。1955年に同球団でメジャーデビュー。1956年MLBでの登板は無く、1957年に再びメジャーリーグでの登板機会を得る。1959年から、デトロイト・タイガースに移籍する。この年から、メジャーリーグでの登板機会が増えるようになる。エクスパンション・ドラフトによって、1960年12月にワシントン・セネタース(現テキサス・レンジャーズ)に移籍する。

1962年末にFAとなり、ボルチモア・オリオールズに移籍する。しかし、1963年5月9日にオリオールズから解雇され、5月24日にワシントン・セネタースと契約して復帰する。1959年から1963年までは、毎年30試合以上メジャーリーグで登板していた。

1964年1月31日にセネタースから阪神タイガースに入団。2月16日に来日。入団時の背番号は72だったが、その後32に変更。

1年目は、防御率3点台前半であったが5勝に終わる。南海との日本シリーズでは第5戦に先発し、6回まで無失点と好投。7回に集中打を浴び3点を失うが、渡辺省三ジーン・バッキーが後続を抑え勝利投手になる。翌1965年は防御率は2点台後半と改善するも前年と同じく5勝に留まり14敗を喫した。シーズンオフに球団から残留を要請されたが、家族が帰国を望んでいたこともあり10月30日に退団が発表された。その後、引退しダートマス大学へ復学し修士課程を学んだ。

投球スタイル・人物

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左のサイドスローからの切れのよいカーブが武器の投手だった。他にナックルやスライダー、シュート、スクリューボールも使用していた。また、四球が少なく使いやすい投手でもあった。

日本球界では防御率は1964年が3.36、1965年には2.91を記録し、WHIPは双方とも1.13と安定していたが、打線の援護に恵まれず、日本球界に在籍した2年間で1年に5勝ずつしかできず、2年目の1965年には14敗を喫している。

1961年ロジャー・マリスは左腕からは12本塁打しか打っていないが、そのうち3本塁打はバーンサイドが献上している[2]。一方、王貞治とは相性が良く、2年間で一度も本塁打を打たれなかった。王と50打席以上対戦した投手72人の中で本塁打を打たれなかったのはバーンサイドを含め3人だけである。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1955 NYG
SF
2 2 1 0 0 1 0 0 -- 1.000 58 12.2 10 1 9 0 0 2 0 0 9 4 2.84 1.50
1957 10 9 1 1 0 1 4 0 -- .200 150 30.2 47 5 13 0 1 18 0 1 30 30 8.8 1.96
1958 6 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 55 10.2 20 3 5 0 0 4 0 0 10 8 6.75 2.34
1959 DET 30 0 0 0 0 1 3 1 -- .250 264 62.0 55 7 25 1 2 49 2 0 31 26 3.77 1.29
1960 31 15 2 0 1 7 7 2 -- .500 506 113.2 122 14 50 1 4 71 3 2 56 54 4.28 1.51
1961 WS3 33 16 4 2 1 4 9 2 -- .308 492 113.1 106 11 51 2 3 56 3 0 66 57 4.53 1.39
1962 40 20 6 0 1 5 11 2 -- .313 645 149.2 152 20 51 3 2 74 1 1 82 74 4.45 1.36
1963 BAL 6 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 35 7.1 11 0 2 0 1 6 0 1 4 4 4.91 1.77
WS3 38 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 306 67.1 84 12 24 1 0 23 2 1 49 46 6.15 1.60
'63計 44 1 0 0 0 0 2 0 -- .000 341 74.2 95 12 26 1 1 29 2 2 53 50 6.03 1.62
1964 阪神 29 19 4 1 0 5 8 -- -- .385 478 118.0 92 12 41 5 2 47 2 0 46 44 3.36 1.13
1965 32 28 6 3 1 5 14 -- -- .263 662 164.1 152 11 33 3 1 54 1 2 62 53 2.91 1.13
MLB:8年 196 64 14 3 3 19 36 7 -- .345 2511 567.1 607 73 230 8 13 303 11 6 337 303 4.81 1.48
NPB:2年 61 47 10 4 1 10 22 -- -- .313 1140 282.1 244 23 74 8 3 101 3 2 108 97 3.10 1.13
  • 「-」は記録なし
  • NYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)は、1958年にSF(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に球団名を変更

記録

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NPB

背番号

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  • 39(1955年)
  • 35(1957年 - 1958年)
  • 19(1959年 - 1960年)
  • 16(1961年 - 1962年)
  • 20(1963年 - 同年途中)
  • 18(1963年途中 - 同年終了)
  • 72(1964年 - 同年途中)
  • 32(1964年途中 - 1965年)

脚注

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  1. ^ Joe Coughlin (2022年9月1日). “In Tribute: Local legend Pete Burnside was professional ballplayer, beloved New Trier educator and ‘invested, kind’ family man” (英語). The Record Community News Group. https://www.therecordnorthshore.org/2022/09/01/in-tribute-local-legend-pete-burnside-was-professional-ballplayer-beloved-new-trier-educator-and-invested-kind-family-man/ 2022年9月3日閲覧。 
  2. ^ 伊東一雄、吉川達郎(監修)『メジャーリーグこそ我が人生:パンチョ伊東の全仕事』産経新聞ニュースサービス、2003年、80-81頁。ISBN 4-594-04117-5 

関連項目

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外部リンク

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