ピストン堀口 対 笹崎僙戦
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(ピストン堀口 対 笹崎たけし戦から転送)
開催日 | 1941年5月28日 | |
認定王座 | ノンタイトル | |
開催地 | 東京 | |
会場 | 両国国技館 | |
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堀口恒男 対 笹崎僙 | ||
ピストン | 槍の笹崎 | |
比較データ | ||
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26 | 年齢 | 26 |
栃木県真岡市 | 出身地 | 北海道空知郡歌志内町 |
戦績 | ||
岡本不二(不二拳闘クラブ) | 指導者 | 渡辺勇次郎(日本拳闘倶楽部) |
評価 | ||
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結果 | 堀口の6回TKO勝ち(タオル投入) |
ピストン堀口 対 笹崎僙戦(ピストンほりぐち たい ささざきたけしせん)は、1941年5月28日に東京・両国国技館で行われたプロボクシングの試合である[1]。
早大在学中の1933年(18歳)に、元世界フライ級王者で欧州バンタム級現役王者のエミール・プラドネル(フランス)と引き分けて以来[2]、国民的英雄となった通称「ピストン堀口」こと堀口恒男(不二拳闘クラブ)と、兵役から復帰後、連勝を26に伸ばした「槍の笹崎」の異名を取る笹崎僙(日本拳闘倶楽部)が対決し、6回TKOで堀口が勝利した[3]。
対決が熱望されながらも、日拳会長渡辺勇次郎と不二拳会長岡本不二の、過去の独立騒動の遺恨により実現せずにいたが、郡司信夫が創刊した拳闘ガゼット誌上において、笹崎が「開かぬ城門、発展を遮断す」の文面で堀口陣営を挑発、堀口が國民新聞紙上で挑戦を受諾し、両会長による手打ち式が行われて実現の運びとなり、「世紀の一戦」と謳われて大きな話題となった[4]。
試合中、堀口の攻撃で笹崎の左目が塞がり、兵役中に右目を白内障で失明していたため、試合続行困難とみてタオルが投入された[5]。
勝者となった堀口は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった[1]。
両雄の対決は、戦後に4度の再戦が行われ、計5試合の通算成績は堀口1勝、笹崎2勝、引き分けが2試合であった。
第2戦
[編集]開催日 | 1946年7月6日 | |
認定王座 | ノンタイトル | |
開催地 | 東京 | |
会場 | 後楽園球場 | |
観衆 | 2万5千人 | |
主催 | 日本拳闘株式会社 | |
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堀口恒男 対 笹崎僙 | ||
拳聖 | 槍の笹崎 | |
比較データ | ||
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31 | 年齢 | 31 |
栃木県真岡市 | 出身地 | 北海道空知郡歌志内町 |
戦績 | ||
評価 | ||
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結果 | 引き分け |
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脚注
[編集]- ^ a b ピストン堀口とは?-ピストン堀口道場
- ^ プロ格闘技年表オモテ
- ^ ジムの歴史 - 笹崎ボクシングジム
- ^ 「特集 人物往来」1巻6号 人物往来社 1956年10月
- ^ 昭和23年~57年、戦後の復興の歩み えんせんシニアネット