バーラクザイ朝
- アフガニスタン首長国
アフガニスタン王国 - إمارة أفغانستان
د افغانستان امارت -
← 1826年 - 1973年 → -
公用語 パシュトー語
ペルシア語首都 カーブル 通貨 アフガンルピー
アフガニ現在 アフガニスタン
バーラクザイ朝(Barakzai dynasty)は、19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル。
中央アジアがロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)の舞台となる中で、両者の対立を利用しつつ3度にわたってイギリスと戦争を繰り広げ(アフガン戦争。1838年 - 1842年、1878年 - 1881年、1919年)、独立を確保して現在のアフガニスタンの国境線を画定した。外敵との戦いは「アフガン人」の国民意識の形成にも寄与した。
名称
[編集]王朝名
[編集]パシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族 (Barakzai) が君主を出したため、バーラクザイ朝と呼ばれる(カナ転記には「バーラクザーイー朝」[1]などの揺れがある)。バーラクザイとは「バーラクの子ら」の意で、部族(氏族)の祖の名に由来する。
ドゥッラーニー部族連合が君主を出した点で、広義のドゥッラーニー朝の一部とされることもある[2]。広義のドゥッラーニー朝は、サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)とバーラクザイ朝を合わせた呼称である。
初代アミール・ドースト・ムハンマドの名から、その家門は「ムハンマドザイ」 (Mohammadzai) と呼ばれるため、ムハンマドザイ朝[3][4][5]の名でも呼ばれる。ドースト・ムハンマドの子孫による君主の継承は1929年に途絶し、傍系(ドースト・ムハンマドの弟の子孫)ムサーヒバーン家 (Musahiban) のムハンマド・ナーディル・シャーが王国を中興した。1929年以降もムハンマドザイ朝とすることもあれば[3]、ムサーヒバーン朝と呼んで区別することもある。
本項ではドースト・ムハンマド以後1973年の王制廃止まで続いたバーラクザイ部族の王朝を「バーラクザイ朝」とする。
君主号・国名
[編集]君主の称号は、1826年の成立時にはハーンであったが、1835年にアミール(首長)、1926年にシャー(国王)に変更している。これにより、国名も「アフガニスタン首長国」 (Emirate of Afghanistan) 、「アフガニスタン王国」 (Kingdom of Afghanistan) と呼び分けられる。
- アフガニスタン首長国
- パシュトー語: إمارة أفغانستان
- アフガニスタン王国
歴史
[編集]ドースト・ムハンマドの自立
[編集]18世紀末以来サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は内乱状態に陥り[3]、カンダハールを拠点とするバーラクザイ部族が勢力を伸ばした[4]。バーラクザイ部族はサドーザイ朝で宰相(ワズィール)を出す部族であり[1]、勢力拡張を嫌ったカームラーン王子 (Shahzada Kamran Durrani) が1818年に部族の長ムハンマド・アズィーム(別名ファトフ・ハーン。1778年 - 1818年)を殺害すると[7]、バーラクザイ部族は各地で反乱をおこし、サドーザイ朝は事実上崩壊した[7]。
ムハンマド・アズィームの弟であるドースト・ムハンマドは1826年にカーブルを掌握し[3]、ハーンを称してハン国を建国した。しかし、その後もしばらくは、彼の兄コハンデル・ハーンがカンダハールを本拠とし[7]、カームラーン王子と宰相ヤール・ムハンマド・ハーンのサドーザイ朝残存勢力がヘラートを本拠として[7]、アフガニスタンに鼎立する状態が続いた[3]。こうした対立は、当地を支配下に置こうとするイラン(カージャール朝)の動向や、ロシアとイギリスの対立(グレート・ゲーム)と結びついた[8]。
アフガニスタン首長国
[編集]1835年、ドースト・ムハンマドは君主の称号をアミール(首長)に変えた(アフガニスタン首長国)。
ドースト・ムハンマドのロシアへの接近を警戒したイギリスは、サドーザイ朝の復興を目指すシュジャー・シャーを支援してアフガニスタンに介入(第一次アフガン戦争、1838年 - 1842年)。ドースト・ムハンマド・ハーンは、イギリスによる逮捕・追放などを経ながら、1843年に復位し、その後20年間アフガニスタンを統治した。1855年にはイギリスとの友好条約(ペシャーワル条約)を締結し、インド大反乱ではイギリスを支援した。国内にあっては、コハンデル・ハーンの死(1855年)後の混乱に乗じてカンダハールを占領[9]、1863年にはサドーザイ家の手にあったヘラートを併合し、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた。
ドースト・ムハンマド・ハーンの跡を継いだシール・アリー・ハーン(在位:1863年 - 1866年、1868年 - 1878年)は、同族間の紛争に直面した。1878年には、シール・アリーのロシアとの接近を危惧したイギリスからも宣戦された(第二次アフガン戦争、1878年 - 1881年)。シール・アリーの跡を継いだヤアクーブ・ハーン(在位:1879年)は、イギリスとの間にガンダマク条約を結び、イギリスの保護国となることを認めたものの、アフガニスタンの抵抗は強く、ヤアクーブも退位した。
妥協を図ったイギリスは、シール・アリーの甥にあたるアブドゥッラフマーン・ハーン(在位:1880年 - 1901年)を保護国アフガニスタンのアミールとして認めた。この際、ガンダマク条約が確認され、アフガニスタンの南東国境(現在のアフガニスタンとパキスタンの国境)が画定された。ただし、その後もイギリスとアブドゥッラフマーン・ハーンを認めない抵抗は続き、1880年にはマイワンドの戦いにおいてイギリス軍がアイユーブ・ハーン(シール・アリーの子)に大敗を喫した。
アブドゥッラフマーン・ハーンは、中央集権を推進したが、一方で抵抗も根強く、イランに亡命したアイユーブ・ハーンとの戦いも行われた。
アフガニスタン王国
[編集]アブドゥッラフマーンの孫にあたるアマーヌッラー・ハーン(在位:1919年 - 1929年)は、王族間の内紛を制して即位すると、第一次世界大戦での疲弊をとらえてイギリスに宣戦(第三次アフガン戦争)。アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)が結ばれた結果、アフガニスタンは外交権を回復し、完全独立を達成した。
アマーヌッラー・ハーンは、急進的な改革を進め、1926年には君主の称号をシャー(国王)に変え、アフガニスタン王国となった。しかし急激な改革は、聖職者階級の反発をまねき、1929年にアマーヌッラー・ハーンは王位を追われた。
各地に僭称者が乱立する混乱を収拾したのは、王家の傍流ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーであった。このナーディル・シャーと息子のザーヒル・シャーの2代を区別して「ムサーヒバーン朝」と呼ぶこともある。ムサーヒバーン朝では、聖職者階級との妥協が図られ、パシュトゥーン人色が強まった。しかしながら、このような態度は、急進改革派の不満をまねき、1973年、ザーヒル・シャーの従兄弟、ムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし、王政を廃止した。
最後の国王ザーヒル・シャーは、アフガン国民統合の象徴として、現在も尊敬の念をもたれている。
歴代君主
[編集]アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)
- ドースト・ムハンマド・ハーン(1835年 - 1839年、1845年 - 1863年)
- ワジル・アクバル・ハーン (1842年 - 1845年)
- シール・アリー・ハーン(1863年 - 1866年、1868年 - 1879年)
- ムハンマド・アフザル・ハーン(1866年 - 1867年)
- ムハンマド・アーザム・ハーン(1867年 - 1868年)
- ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン(1879年)
- アイユーブ・ハーン(1879年 - 1880年)
- アブドゥッラフマーン・ハーン(1880年 - 1901年)
- ハビーブッラー・ハーン(1901年 - 1919年)
- ナスルッラー・ハーン(1919年)
- アマーヌッラー・ハーン(1919年 - 1926年称号変更)
国王(シャー)
- アマーヌッラー・シャー(1926年 - 1929年)
- イナーヤトゥッラー・シャー(1929年)
- ムハンマド・ナーディル・シャー(1929年 - 1933年)
- ムハンマド・ザーヒル・シャー(1933年 - 1973年)
系図
[編集]バーラクザイ朝の系譜[10]
- 数字はバーラクザイ朝の継承順。君主の代数の数え方には諸説あり、最後のザーヒル・シャーは9代目ともされる[3]。
Painda Khan | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Sultan Muhanmmad ペシャワール太守 | Fateh Khan Wazir カーブル太守 | ドースト・ムハンマド・ハーン 1,3 | Zaman Shah | Kohen Dil カンダハル太守 | Mir Dil カンダハル太守 | Rahim Dil | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ワジル・アクバル・ハーン 2 | Wali Muhammad | シール・アリー・ハーン 4,7 | ムハンマド・アフザル・ハーン 5 | ムハンマド・アーザム・ハーン 6 | Sher Ali カンダハル太守 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Yahya Khan | 女 | ムハンマド・ヤアクーブ・ハーン 8 | アイユーブ・ハーン 9 ヘラート太守 | Abdullah Jan | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Muhammad Yusuf | アブドゥッラフマーン・ハーン 10 | Ghulam Tarzi | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド・ナーディル・シャー 15 | Shah Mahmud Khan | ムハンマド・ハーシム・ハーン | Muhammad Aziz | 女 | ハビーブッラー・ハーン 11 | ナスルッラー・ハーン 12 | マフムード・タルズィー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド・ザーヒル・シャー 16 | Zamina Begum | ムハンマド・ダーウード | イナーヤトゥッラー・シャー 14 | アマーヌッラー・シャー 13 | ソラヤ・タルズィー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国章
[編集]国章は、1919年に初代が制定され、何度か変更されている。
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1919-1926
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1926-1928
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1928-1929
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1931-1973
国旗
[編集]国旗も何度か変更されている。
期間 | 旗 | 縦横比 | 備考 |
---|---|---|---|
1880-1901 | 2:3 | アブドゥッラフマーン・ハーン治世下での旗。 | |
1901-1919 | 3:5 | ハビーブッラー・ハーン治世下での旗。ハビーブッラーは父王の旗に近代的な国章を加えた。 | |
1919-1921 | 2:3 | アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた最初の旗。父王の旗の国章のデザインを変えたもの。この国章のデザイン(オクトグラム)は、オスマン帝国で一般的な様式である。 | |
1921-1928 | 2:3 | アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第二の旗。国章を囲む円を卵型にした。アフガニスタンは1926年に首長国から王国になった。 | |
1928 | 2:3 | アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第三の旗。国章を囲むオクトグラムを花輪に置き換え、国章を微修正した。 | |
1928-1929 | 2:3 | アマーヌッラー・ハーン治世でつくられた第四の旗。黒・赤・緑の三色旗を採用した。黒は過去(前の旗)、赤は第三次アフガン戦争(1919年)で独立のために流された血、緑は未来への希望をあらわす。1927年におこなわれた王のヨーロッパ訪問がおそらく影響している。新しい国章は二つの山から太陽が昇るもので、王国の新しい始まりを意味する。 | |
1929 | 2:3 | イギリスに支援されてアマーヌッラー・ハーンを逐った叛乱指導者ハビーブッラー・カラカーニーが掲げた旗。赤・黒・白の三色旗は、13世紀にモンゴルに支配された時期に用いられた旗と同様である。 | |
1929-1930 | 2:3 | ムハンマド・ナーディル・シャー治世の最初の旗。黒・赤・緑の三色旗が復活した。アマーヌッラー・ハーンの二番目の旗の国章が用いられている。 | |
1930-1973 | 2:3 | ムハンマド・ナーディル・シャー治世で定められた第二の旗で、その子ザーヒル・シャーも用いた。オクトグラムが取り除かれ、国章が大きくなった。紋章に描かれた年号 ١٣٤٨ (イスラム暦1348年、グレゴリオ暦の1929年)は、ムハンマド・ナーディル・シャーの王朝が開かれた年を示す。 |
脚注
[編集]- ^ a b “バーラクザーイー”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324。執筆者は勝藤猛。
- ^ a b c d e f “概要 アフガニスタンについて”. 鮮麗なる阿富汗 一八四八~石版画にみるアフガニスタンの風俗と習慣. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 (2007年). 2017年5月27日閲覧。
- ^ a b “バーラクザイ朝”. 日本大百科事典ニッポニカ(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324
- ^ 『アフガニスタンのさまざまな部族の衣装、貴婦人たち、著名な王子たちと族長たちの肖像、主な城砦と町、町の内部と寺院の光景』
- ^ a b c d 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.137
- ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、pp.137-138
- ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.141
- ^ Wikimedia commons の図版 等より[信頼性要検証]
外部リンク
[編集]- 鮮麗なる阿富汗 一八四八~石版画にみるアフガニスタンの風俗と習慣 - 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所。2007年の企画展示