ヘンリー・チチェスター (第2代テンプルモア男爵)
第2代テンプルモア男爵ヘンリー・スペンサー・チチェスター(英語: Henry Spencer Chichester, 2nd Baron Templemore、1821年6月14日 – 1906年6月10日)は、イギリスの貴族、政治家。
生涯
[編集]初代テンプルモア男爵アーサー・チチェスターと妻オーガスタ(Augusta、1802年1月26日 – 1872年6月6日、初代アングルシー侯爵ヘンリー・パジェットの娘)の長男として、1821年6月14日に生まれた[1]。1832年ごろから1835年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1839年10月16日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]。1837年9月26日に父が死去すると、テンプルモア男爵位を継承した[1]。
1840年7月7日、サセックス民兵隊のエンサイン(歩兵少尉)に任命された[3]。1842年3月18日、ライフ・ガーズ第1連隊のコルネット(騎兵少尉)および下士官への辞令を購入した[4]。1843年4月7日、陸軍での軍務から引退した[5]。1846年4月21日、サセックス民兵隊の中尉に昇進した[6]。1852年11月ごろに民兵隊からも引退した[7]。1893年9月2日、ロイヤル・アイリッシュ連隊第3大隊の名誉隊長に任命された[8]。
アイルランドの地主であり、1876年時点でウェックスフォード県に11,327エーカーの、ドニゴール県に10,856エーカーの、ロンドンデリー県に1,890エーカーの、ダウン県に26エーカーの領地を所有し、合計で年収16,485ポンド相当だった[9]。アイルランドにおける領地の面積は1883年時点でも同じであり、またブリテン島ではハンプシャーに2,543エーカーの領地を所有しており、これらすべてを合算すると年収18,793ポンド相当だった[1]。1876年から1887年までメイフェアのアッパー・ブルック・ストリート2号に住んだ[10]。ウェックスフォード県では治安判事と副統監を務めた[9]。
貴族院では保守党に属した[1]。1902年8月29日、エドワード7世と王妃アレクサンドラの戴冠式に出席した[11]。
1906年6月10日、グレート・カンバーランド・プレース23号で死去、14日にケンサル・グリーンに埋葬された[1]。息子アーサー・ヘンリーが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1842年8月3日、ローラ・キャロライン・ジェーン・パジェット(Laura Caroline Jane Paget、1816年10月24日 – 1871年12月9日、サー・アーサー・パジェットの娘)と結婚[1]、1男1女をもうけた[12]。
1873年1月8日、ヴィクトリア・アシュリー・アシュリー=クーパー(Victoria Ashley Ashley-Cooper、1837年9月23日 – 1927年2月15日、第7代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーの娘)と再婚[1]、1女をもうけた[12]。
- ヒルダ・キャロライン(1875年12月17日 – 1961年2月2日) - 1913年12月2日、ヴィクター・ジョージ・シーモア・コクラン(Victor George Seymour Corkran、1934年3月10日没)と結婚、子供あり[12]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1953). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Skelmersdale to Towton). Vol. 12 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 662.
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (A to D) (英語). Vol. 1. Oxford: University of Oxford. p. 246.
- ^ "No. 19875". The London Gazette (英語). 17 July 1840. p. 1681.
- ^ "No. 20082". The London Gazette (英語). 18 March 1842. p. 758.
- ^ "No. 20211". The London Gazette (英語). 7 April 1843. p. 1154.
- ^ "No. 20605". The London Gazette (英語). 19 May 1846. p. 1836.
- ^ "No. 21390". The London Gazette (英語). 10 December 1852. p. 3612.
- ^ "No. 26437". The London Gazette (英語). 1 September 1893. p. 4996.
- ^ a b De Burgh, U. H. Hussey (1878). The Landowners of Ireland (英語). Dublin: Hodges, Foster, and Figgis. p. 440.
- ^ Sheppard, F. H. W., ed. (1980). "Upper Brook Street: North Side". Survey of London: The Grosvenor Estate in Mayfair, Part 2 (The Buildings) (英語). Vol. 40. London: London County Council. pp. 200–210. British History Onlineより。
- ^ "No. 27489". The London Gazette (Supplement) (英語). 28 October 1902. p. 6859.
- ^ a b c d e Townend, Peter, ed. (1963). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語). Vol. 3 (103rd ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 2386.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Harry Chichester
- "ヘンリー・チチェスターの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
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