ハイド・パーカー (第5代準男爵)
サー・ハイド・パーカー準男爵 | |
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ジョージ・ロムニーによる肖像画、1782年頃。 | |
生誕 | 1714年2月25日 |
死没 | 1782年(67 - 68歳没) |
所属組織 | グレートブリテン王国 |
部門 | イギリス海軍 |
最終階級 | 海軍中将 |
戦闘 | 七年戦争 アメリカ独立戦争 |
第5代準男爵サー・ハイド・パーカー海軍中将(英語: Sir Hyde Parker, 5th Baronet、1714年2月25日 - 1782年)は、イギリス海軍の指揮官。
生涯
[編集]初期の経歴
[編集]パーカーは現ウォリックシャーのトレディングトンで生まれた。祖父は第2代準男爵ヘンリー・パーカー(ソールズベリー主教アレクサンダー・ハイドの娘と結婚していた)で、父は聖職者だった。24歳のときにイギリス海軍に従軍、1748年にはポスト・キャプテン(海軍大佐の一種)に昇進した[1]。当時60万ポンドの価値があるスペイン・ガレオン船を拿捕したことで、家族が豊かになった。
七年戦争
[編集]1755年10月、ハイド・パーカーはポスト・シップのスクアラールの艦長に任命され、翌年にはフランスの私掠船トレ・ヴェネラブル(Très Vénėrable)を拿捕した。
七年戦争の後半には東インド水域で戦い、1760年から1761年のポンディシェリー包囲戦と1762年のマニラの戦いに参戦した[1]。1762年10月30日の海戦ではマニラ・ガレオン船の1隻をアカプルコとマニラの間の回航中に拿捕した。
アメリカ独立戦争
[編集]1778年に海軍少将に昇進、副司令官として北米の水域に向かった[1]。ジョージ・ロドニーが到着する以前、リーワード諸島の指揮官であり、マルティニークでフランスに対しうまく立ち回った[1]。
1781年、帰国して海軍中将になった後、1781年8月5日にオランダ艦隊とドッガー・バンク海戦を戦い、お互い優勢を得られないまま撤退した。パーカーは任務に必要な能力が足りないと考え、辞任した[1]。
1782年7月10日に準男爵位を継承し[2]、その直後、東インド基地の指揮官に任命された[1]。しかし、任地に向かう途中に旗艦カト(Cato)が沈没、パーカーを含め全員が失われた[1]。
準男爵位は長男ハリーが継承した。次男のハイドは提督になった。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g Sir Hyde Parker at Oxford Dictionary of National Biography
- ^ Lundy, Darryl. “Right Admiral Sir Hyde Parker, 5th Bt.” (英語). thepeerage.com. 2019年10月17日閲覧。
参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Parker, Sir Hyde". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
イングランドの準男爵 | ||
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先代 ヘンリー・パーカー |
第5代準男爵 (メルフォード・ホールの) 1782年 |
次代 ハリー・パーカー |