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ノート:学校法人跡見学園

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ノート:跡見学園から転送)

現在の項目の説明「跡見はルーツは大阪に有る」(初版)を「悪戯」と判断し、削除を依頼するかどうかは、むつかしいところ。スタブともとれるのではないか、と思うので。ただし、そもそも「跡見学園」での立項にあまり合理性がみられないところから、削除が適当ではないか、とも一方で思う。220.99.139.122 09:12 2004年5月12日 (UTC)

跡見学園創設者の名前が違います

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Wikipedia:ヘルプデスクから転入してきました

跡見学園(あとみがくえん)は、跡見学園中学校・高等学校・跡見学園女子大学を傘下に持つ私立学校法人。

跡見重敬によって大阪で始められた跡見塾が淵源。運営を引き継いだ跡見花蹊が1870年に上京し、1875年に跡見学校として開校。1906年に高等女学校に準拠し、戦後の学制改革の後1950年に短期大学を開学。1965年に女子大学を開学した。


正しくは「跡見花蹊(あとみ・かけい)」だったと思います・・・ (2005年11月18日 (金) 19:39 JST、165.21.154.17)

・・・一応そのとおり書いてあるように(も)読めます、けれどもし、跡見塾「を」跡見学校「として」開校、という繋がりがおかしい、というご指摘ならば、ひょっとするとそうなのだろうかとも思う余地があります。ただ少なくとも名前の問題ではないのでは。Mulukhiyya 2005年11月18日 (金) 11:21 (UTC)[返信]

創設者が花蹊であることを明確化しました

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まず、「跡見重敬によって大阪で始められた跡見塾が淵源」という一文は誤解を招くため変更。

確かに花蹊は子供の頃から大阪西成の父の家塾の手伝いをしており、17歳で一時京都に遊学した後、20歳頃に父が出仕したため、塾をまかされもしました。この塾の弟子は付近の子供や農夫たちです。しかし跡見学校の母体はこれではありません。花蹊は明治3年に一家で東京に出てきた折に、東京の令嬢ともいうべき人たちの雅ならざる殺風景に衝撃を受け、「予この風体をみて是を一変せねばと考ふ、女子教育の念強し」と日記に書きます。その花蹊の元に入門して来たのは京都時代の公家の縁の姫君たちが中心で、やがて「入門する華族の姫たち八十余名に達す」るに及び家塾では間に合わなくなり、跡見学校の開校へと向かいます。これを見ても近所の子供や農夫を対象とした父の私塾の延長線上のものでないことは確かでしょう。花蹊自身の考えで自主的に開校したものです。本人が書いているとおり、開学の動機と眼目は女子(=令嬢)の教育にあったわけです。同校が旨とする「雅び」も「京風」であり「公家風」で、生徒の姫達は髪を稚児輪にするのが規則だった言います。当然ながら大阪風の農村風ではないのです。

大阪の塾での経験が何の関係もないとは言えないでしょうが、それは花蹊自身の経歴上のことであり、学園の歴史とは直接結びつきません。そのため「淵源」という曖昧な表現なのかも知れませんが、跡見学園の創始者は飽くまでも花蹊であり、「運営を引き継いだ跡見花蹊(あとみ かけい)が・・」の一文も父・重敬(学園で点茶の指導はした)の塾が直接のルーツであるかのように誤解されるため変更しました。219.120.96.138 2006年6月3日 (土) 20:49 (UTC)[返信]