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ノート:教育ニ関スル勅語

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ノート:教育勅語から転送)

あってもいいかなと思う記載事項

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奉安殿

確か、教育勅語は学校に作られた小さな蔵みたいなところに置かれていたようですね。そのあたり確認してみる。0null0 13:54 2003年12月27日 (UTC)

ぐぐったら、奉安殿と出ましたね。これを記事に加えることにしよう。0null0 14:00 2003年12月27日 (UTC)

「一旦緩急アレバ」の話

誰か書いて頂けませんかねぇ。なぜ未然形じゃなくって已然形なのかってのを戦前の国文学者が如何に苦労してこじつけたかって話は面白いと思うんですが......小生自身はトピックとしては知ってるけど資料を持ってないので...... martin 2004年7月20日 (火) 16:25 (UTC)[返信]

今なくて、あってもいいかなと個人的に思う記載事項です。自分では書けないので…。(^^;)

本文

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本文がとても読めないんだけど、これってふりがなを振ったら、著作権にふれるのでしょうか。確か、ふりがなは文語と口語と両方あったとおもうんだけど、どっちがいいでしょうかね。Mishika 23:34 2004年2月19日 (UTC)

結局、本文はリンク先を見てもらうということで落ち着きそうですね。
あのリンクをはったのは自分ですが、かなり見て回って厳選した甲斐がありました (^^)/。Kadzuwo 19:09 2004年3月17日 (UTC)

英文ページ

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英文ページを見たら、戦時中の反日宣伝のコピペみたいな内容だったので (^^;;)、取り敢えず明治神宮の英文ページの訳文にリンクしてきました。本文を読んでもらえば事実との食い違いに気づいてもらえる人も出てくることを期待して……。Kadzuwo 10:07 2004年3月18日 (UTC)

疑問のある記載・不十分な記載

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皇學館高等学校について

皇學館高等学校のWebを見てみましたが、教育方針には「日本人としての正しい学問と高い教養を身につけると同時に、国際的な広い視野と豊かな感覚を兼ね備え、国家社会に貢献できる清純で気品のある人材を育成します。」とあり、教育勅語は教育方針なのではなくて、教材として使用されているのではないかと思われます。通例、教育方針とは、いくつかの項目からなる学校独自の訓辞であり、教育勅語そのものは教育方針にはなりにくいと考えられます。皇學館高等学校への誤解を生じる恐れもあると考えますので、とりあえずコメントアウトしました。YuTanaka 2004年8月29日 (日) 12:25 (UTC)[返信]

教育勅語を評価し参考にした国

記事では、イギリスなどが評価したとありますが、どのような点で評価されたのかを書いてあるといいかなあと。あと、教育勅語を参考にした国についても国名と具体的に参考にした部分が欲しいですね。YuTanaka 2004年8月29日 (日) 12:35 (UTC)[返信]

大槻文彦氏について

記事中「文法の誤り」節にて大槻文彦氏の当時の所属に「御茶ノ水女子高等師範教授」と有りますが、これは「東京女子高等師範学校」、また教育勅語の発布「直後」に同氏が誤りを指摘したとすれば、当時まだ奈良女高師は開校していない(1908年開校)ため単に「女子高等師範学校」ではないかと考えますが、大槻氏が東京女高師で教鞭を取っていた旨の裏が取れなかったため、改筆は留保致しました。いずれにせよ現・お茶の水女子大の「沿革」においても、教育勅語発布前後において「御茶ノ水女子高等師範」と称した時期は確認できていません。識者のご判断を仰ぎたく存じ上げます。210.229.11.221 2005年9月23日 (金) 19:27 (UTC)[返信]

国民道徳協会の現代語訳について

1)同訳は明治神宮のHPで明治天皇の業績として使用され、一種の権威付けがある。また「教育勅語 現代語訳」で検索しても多くヒットする

2)「教育勅語 国民道徳協会」で検索すれば、批判はいくらでもヒットします ただ、個人のブログ等が主なので記載が妥当かどうか疑問があり、リンク等は出しません 批判の内容や正否がどうとかではなく、この訳を批判する意見が多くあるというだけです--111.169.57.101 2015年6月27日 (土) 03:44 (UTC) ※国民道徳協会という団体はどうも所在自体が怪しい。HPも持っていないし、他に著作物もない。明治神宮のHPで使用しているところを見ると明治神宮内で作ったものかもしれないが、それにしては訳が不誠実だ。⇒誹謗しているのではなく原文の何処にもない「道義国家」などと言葉を使って肇国の表現を訳しているのは無理があるからだ。ここは適役を検討すべきだし、国民道徳協会なる者を信用してはならないと思う。--Shinyayasuaki 2017年6月28日 (水) 00:26 (UTC)[返信]

「文法の誤り」節の中立性について

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一旦緩急アレバについては、誤用説とその反対説があり、今の説明は誤用説を「正しい」とする立場で書かれています。しかし、ウィキペディアはどちらの説が「正しい」かについて審判を下すものではないと思います。中立性を確保する観点からは両論併記が望ましいのではないでしょうか。

両論併記に当っては、誰の説なのかを明示すべきだと思います。誤用説については、大槻文彦氏の指摘に関する伝聞だけでは不充分ですので、誤用説を唱える論文・著書を挙げる必要があると思いますが、どなかたご存知ですか? なお、反対説については参考文献の八木公生(2001)p199-200を挙げたいと思っています。俊平太郎 2006年2月26日 (日) 03:38 (UTC)[返信]

この節は両論併記ではなく、(1)誤用説が正しい、(2)それなのに誤用でないと言い張る荒唐無稽な説もあるのでいちおう書いておく、というスタンスによるものです。事象の解釈についての論争ではなくて、文法に関する基本的な問題なので、たとえば「1+1=3」について、それは誤解であるとする人と、いや正しいという変な人がいる、という理解なので、本来は(2)など記す必要もないのでしょうが、戦前からゴシップとしてよく言われてきたことなので、教育勅語の享受史として落とすのは惜しいと思って書いています……。そもそも恒時条件は已然形を受ける用法なので、「緩急アル」という状態がすでに起こっているという意味になってしまい、「一旦」(=ひとたび=もし)という副詞と対応しなくなります。この点からいっても無理がありすぎるのですが。(つまり誤用説の根拠は、本文に記したとおり、文法的にいって誤用としか考えられないということです。もちろんきちんと誤用であるとしている文献もありますが、それをわざわざ掲げるほどのことではないのではないでしょうか?)--130.54.12.246 2006年7月26日 (水) 04:01 (UTC)[返信]

ちなみに一旦緩急アレバの出典は史記袁〓伝で、こちらでは「もし事あれば」という解釈です。漢詩文(勅語も漢詩文(の書下し)の一種と考えて)のもっとも基本的な原則として、典拠を踏まえた表現はもとの書物で用いられている意味どおりに使うというのは当然のことですから、これからいっても誤用説が圧倒的に正しいことを申し添えておきます。--130.54.12.246 2006年7月26日 (水) 04:05 (UTC)[返信]

中高で教わる教育用文法では必ず○×があるかもしれませんが、実際の日本語は時代とともに変遷していくものですから○×で答えられないこともあります。この件がそうです。順接の仮定条件を表す「未然形+バ」の代わりに「已然形+バ」を用いる用法は中世にあらわれ、室町・江戸時代を通じて用例が増えていきます。これを「誤用」とみなすのか「新しい用法」とみなすのかは論者の主観によるものです。 現在本文中に「漢学者の訓読癖」とありますが、これを「正しい訓読」なるものから外れた「癖」と捉えるのか、「新しい訓読」と捉えるのかは主観の問題です。 客観的にどちらが正しいか判断するのは難しいと思います。◆ なお、典拠である「今公常従数騎一旦有緩急寧足恃乎」については、これをどのように訓読するかは漢籍には書いておりません(当然ですが)。漢語には已然形も未然形もありませんので。◆ 130.54.12.246さんが誤用説の立場にたってらっしゃるのは理解できますが、ウィキペディアは自説を発表する場ではありません。もっとも、誤用説の存在を紹介するのはやぶさかではありません。が、その際は誤用説を唱える論文・著書を挙げる必要があると思います。私も少し探してみたのですが「学校の生徒が誤用を指摘して教師にたしなめられた」などというものは見つけましたが、ちゃんとした論者による誤用説は発見できませんでした。130.54.12.246さんは当然ご承知のことと思いますので、お教えください。◆ また本文中「ちなみに反論派の主な論拠は上記(3)の恒時条件」とありますが、ここにいう「反論派」とは具体的に誰なのか、またその「論拠」は具体的に何で示されたものなのか、お教えください。◆ 私は上に書きましたとおり反対説として参考文献の八木公生(2001)を挙げたいと思っています。(上にはp199-200と書きましたが正しくはp197-198でした。訂正します。)--俊平太郎 2006年7月26日 (水) 10:05 (UTC)[返信]

特に反論が出ないようなので、私の考えを本文に反映させました。少し反誤用説に傾いたような書き方になっているかのような感じもあります。批判、修正をお待ちしています。--俊平太郎 2007年4月29日 (日) 10:57 (UTC)[返信]

Shiroishi101 さんへ。 ◆ 本文コメントアウトで「待ってました! そのような研究があればうまく糊塗できます。先行研究文献をよろしくお願いします。独自研究でなく。下っ端役人の用例研究の文献ではなく詔書・省令級の先行研究を是非。」と書かれていますが、意味をとりかねています。「詔書・省令級の先行研究」とは、具体的にどのようなものを求められているのでしょうか? 一応、勅令の例を脚注に挙げましたが、これは独自調査でケシカランということになるのですか? 特定の立場の説の紹介する際にはその説の出典を挙げるべきだと思いますが、そうでない場合は一々挙げないのが普通の書き方だと思っています。例えば、本項目のほかの節ではそうなっていまし、他の項目でも同様だと思います。 ◆ 「この解釈を採るとすれば、中古文法を基準とする当時の教育用文法が、教育勅語の文法と食い違っていたことになる」に要出典が貼られていましたが、どのような出典を求めれているのでしょうか。このセンテンスは私の推論ですが、ごく平凡な推論だと思います。「非誤用説を採ったとしても、教育用文法とは違うよね」というのは誤った推論でしょうか? それとも、そもそも推論を書くべきでないということですか?  ◆ 私の立場を申しますと、中古文法は文部省が便宜上教育用に採用したのに過ぎないのであって、それを絶対視すべできではない、ということです。ここはウィキペディア日本語版であって日本国版ではありませんし、教育勅語も教育用文法もどちらも明治政府が創ったものですから、どちらが「正しい」かはウィキペディアが関知するものではないでしょうし。(明治政府の立場に立てば、詔勅たる教育勅語と、判任官たる中学教諭に教えさせていた教育用文法とでは、教育勅語の方がずっと上でしょうけど、それは明治政府の都合。)◆ さて、今、文法誤用説の項は、少々バランスを失した異様なボリュームになってきました。コンセンサスが得られたら、内容を思い切って圧縮すべきだと思っております。とりわけ出典の表示についてですが、特定の立場の説を紹介する箇所以外は、出典は不要ではないですかね。同意いただけますか? --俊平太郎 2007年5月2日 (水) 14:57 (UTC)[返信]


まず、貴君の記事は何か画期的な新説の紹介かと思いましたが、結局は(中古の文法を基準とする)公用文が明治期(教育勅語の少し前の明治20年代初頭)に新しくつくられたという定説の紹介でした。私にはそれが「教育用文法」限定にすり変わる理路が分かりません。貴君は「中古文法は文部省が便宜上教育用に採用したのに過ぎない」{要出典}と言いますが、公文書の「普通文」(明治普通文)がそうでないことは注に示した山口仲美(『日本語の歴史』岩波書店、岩波新書(新赤版)1018、2006年、202頁)にも示されているような定説の通りです。私の手元の『文芸用語の基礎知識』(至文堂、「解釈と鑑賞」1976年3月、臨時増刊号、「和漢混淆文」の項)でもそうなっています。貴君が依拠する「中古文法は文部省が便宜上教育用に採用したのに過ぎない」という見解の出典と、それを前提とした記述の出典をお願いします。次に貴君の「勅令の例」を公文書館のホームページで見ましたが、当方の見識不足か、「已然形+バ」を仮定条件で解釈できる例を見ることができませんでした。読者にもわかりにくいと思いますので、そこまで踏み込んだ具体的な記述を願います。貴君が参照している先行論でもそうなっていると思います。用例の年号もお願いします。そうすれば私の考える「詔書・省令級の先行研究」となります。そしてそれが貴君の独自研究でなく、先行論を踏まえたものでしたら、先行論のプライオリティを侵さないように、先行論の紹介をお願いします。また、「推論」を書いてよろしければ、私の「私見では過渡期の『破格』にすぎない」という独自研究もやがて書き足したいと思いますが、これは他者の意見も伺いたいところです。『ウィキペディア(Wikipedia)』はおそらく世間の百科事典以上のことはしてはいけないと思いますので、先行論の紹介・整理・解説が限界と思っております。貴君の記述は「整理」の範囲を超えているように思います。それからそもそもこれを文法的に間違っているという説は実在するのでしょうか。まさか八木公生氏が自作自演で火を付けているとは想像しにくいので、誤用とする「特定の立場」のご紹介を願います。確か渡部昇一という英文学者の随筆(研究ではない)だったようにも私は記憶しますが、わかりません。「文法誤用説の項は、少々バランスを失した異様なボリューム」というはしかたのないことです。記述の論拠を明らかにしつつ方向を定めてからダイエットすればよいと思っております。ともかく他の詔勅類での「已然形+バ」が仮定条件を示す例の先行研究(八木公生論?)があればそれで済むことと思います。全てを書き直して2~3行+注釈で済むでしょう。待ちかねておりましたのでなにとぞよろしくお願いします。その際は当方が書き加えた分の削除にもまったく異論はありません。注1も単に普通文の説明のためのものです。「普通文」についての定説であげられるものを引用したものですがこの「教育勅語」に特定したものではありませんので。--Shiroishi101 2007年5月2日 (水) 17:05 (UTC)[返信]
「普通文」ですが、辞典の画像がありました。書誌表示が不正確ですが、「新潮文学大辞典」というキャプションがついています。これにも「明治二十年前後からは普通文に大変化が起こり、一方では国文学が復興し」、「文法は国文学復興以来、中古文の文法が規範とせられた」とあります。これに対し、坪内逍遥らが「古来の文法を改め……」と主張を開始したのは『教育勅語』のあとの1895(M28)年4月という解説もあります。「大正年代には(中略)普通文は公用文等特殊の場合に限られるに至った」ともあり、教育用文法専用ではありません。面倒とは思いますが、プリントアウトすれば何とか読めますので、できればお読み下さい。左クリックして画像のみにし、プリントすれば1枚に収まります--Shiroishi101 2007年5月2日 (水) 22:49 (UTC) 補記--Shiroishi101 2007年5月2日 (水) 22:55 (UTC)[返信]


検証の方向性について
よく読み直してみたら貴君の挙げた典拠の『史記』に「一旦有緩急寧」とあるではありませんか。最後の「寧」は「むしろ」という逆接にも使う字ですから、茶園義男の説と合致しそうです。貴君の挙げた漢文の訓読のパターンとして、当該部分が『教育勅語』以前で中世以降の『史記』の評釈書でどのような訓がなされているか実証すれば、解決するでしょう。2例以上の重出証明でないとその評釈書も間違っているという文句が付けられると思いますが、精査すれば複数が出てくるでしょう。ただ、それでは独自調査になってしまうので、そういう調査報告を先に探して引用しましょう。そのくらいの先行研究はきっとあるだろうと推測します。
ちなみに国会図書館のサイトには凌稚隆編,李光縉増補,有井範平補『史記評林』第21冊(91あるシートの88シート目の8行目。)がありましたが、返り点のみで送りガナが無いので証拠にはできません。しかしきっと類似のものがあるでしょう。文献検索はこちらが便利です。厖大な量の先行文献が見つかります。--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 03:47 (UTC)校正--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 03:52 (UTC)[返信]
漢文の訓読のパターンですが、これは八木公生説でしょうか。であればその本に参考文献が挙げてあって、そのなかに文献データがあるように推測されます。--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 07:19 (UTC)[返信]

議論の前に、Kafuka1964さんとShiroishi101さんの関係をお教えください。今はもうありませんが、2007年5月2日 (水) 16:28(UTC)にKafuka1964さんが「前記、署名が違いますが、ソツク・パペット(?)のような不正行為はしておりません。」と書かれていました。私はこの意味を取りかねています。その後2007年5月2日 (水) 17:05 にShiroishi101さんが「署名の修正など」として署名を書き換えているところから、その意味を私なりに推測すると、「Shiroishi101とKafuka1964は、同一人物の多重アカウントである。これは決してソックパペット(多重アカウントによる見せかけの会話)のような不正行為ではない」という意味でしょうか? 勘違いだったら御免なさい。勘違いでなければ、多重アカウントを使い分ける理由をお教えください。--俊平太郎 2007年5月3日 (木) 05:49 (UTC)[返信]

たいがいはおっしゃる通りです。Kafuka1964は同居人と二人で共有し、Shiroishi101は隣接の仕事場で僕が占有している筈でした。今回はイデオロギー的な対立となる可能性がありましたので、当初からShiroishi101を用いたのですが、同居人がチーズに関することを書き込もうとして、仕事場でKafuka1964の方でログインしてしまい(その時は急用で書き込まなかったそうです)、僕がそれに気づかずにShiroishi101のつもりで書いてしまいました。使い分ける理由は議論ごとにアカウントを分ける以外のことはありません。ですから、人間宣言の項目での議論にはShiroishi101を用いていません。各種の投票行動も行っていません。それから、第三者にも申し上げますが、Shiroishi101と俊平太郎氏とはまったくの別人物で、対立を装いながら一つの方向に恣意的に記事を曲げてゆくというようなこともしておりません。--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 07:19 (UTC)校正--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 07:21 (UTC)校正--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 07:33 (UTC)[返信]
最初に書くべきでしたが、紛らわしいことをしてしまったことについて深くお詫び申し上げます。すみませんでした。--Shiroishi101 2007年5月3日 (木) 07:50 (UTC)[返信]

教育勅語研究の嚆矢でもある海後宗臣『教育勅語成立史研究』では中村正直草案、元田永孚草案、井上毅草案のすべてを正確に紹介した上(原文写真付き)で書かれていますので、海後の解釈・分析を超えてわれわれの目で史料の検証ができます。中村、元田草案には「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」にかかわる記述はなく、その初出は井上草案からです。井上の草案一に「一朝事アレバ義勇公ニ奉シ」というくだりが登場します。これが6月20日。これが草案三では「一朝事アレハ義勇ヲ奮テ公ニ奉シ」と修正されます。そして草案四では「一朝事アレハ義勇公ニ奉シ」に戻ります。「アレハ」は変わりません。草案五では「緩急事アレハ義勇難ニ殉シ」となり、草案六では「緩急事アレハ大節難ニ殉シ」、草案七では「緩急事アレハ鞠躬難ニ殉シ」、草案八では変わらず、草案九になります。ここで「緩急事アラハ鞠躬難ニ殉シ」と「アラハ」が登場します。「元田はこれをもって、勅語案文修正の一つの段階が終ったと考えたのであろう。これを天皇からの内意による案文修正の結果として確定し、井上に送って更に検討を重ねることとしたのである」と海後は説明しています。これに井上が朱を入れた。そうして「緩急事アレハ躬ヲ以テ国ニ殉シ」と「アレハ」に戻ったのである。それが草案十である。つまり井上は元田が「アラハ」と直したものを「アレハ」に戻したということは井上にして敢えて「アレハ」とする意味があったということになる。この前後に井上は「文人風ノ纖巧手段ノ嫌ヲ避ケ」と井上に書簡を送り、元田も「文人風の纖巧を不用とハ素より御名言ト奉存」と答えている。そして草案十六で再び「一朝事アレハ義勇公ニ奉シ」が復活した。そして草案十七において「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ」と修正されている。その後も何度かやりとりはあるが、「アラハ」となることはない。  以上の草案の比較から見れば、①井上毅は最初から「アレハ」で書き、元田が「アラハ」と修正したのを、井上が「アレハ」に戻し、元田もそのまま訂正せずに至った経緯から判断すると「アレハ」はミスではなく、井上が意図的にそうしたものであり、元田もその意を汲んで、そのまま「アレハ」にしたことが推察できる。 ②「アレハ」の前後の文言、「一旦緩急」と「義勇公ニ奉シ」は草案をいじるたびにいろいろな文言を試みている。どこかに出典を求めるより、井上の工夫とみるべきであろう。もちろん井上や元田の論議の背景に漢籍の深い知見があったことは確かであるが、それは彼らの中で消化されて彼らの言葉として書き込まれたとみるのが妥当ではないか。--Shinyayasuaki 2017年6月28日 (水) 00:56 (UTC)

成立過程の記述がおかしくないですか?

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「元田永孚は…明治天皇に対して…進言した。そこで明治天皇は井上毅と元田に命じて、…12の徳目(道徳)を語り…」と書かれていますが、これは私の目からみると大変疑問です。この記述のソースをご存知の方はいますか?

ちなみに私の知識では

  • 教育勅語の直接の契機となったものは地方長官会議の「徳育涵養の義に付建議」(1890年2月26日)。
→元田も明治天皇に進言していたかは不明。
  • 明治天皇に命じられたのは榎本文部大臣とその後任の芳川文部大臣。
→元田・井上も明治天皇に命じられたかは不明。
  • 明治天皇が文部大臣に命じたのは「教育上の箴言を編めよ」という抽象的なもの。
→明治天皇が12の徳目を挙げたかどうかは不明。

です。私の知らない新事実を元に記述されているかもしれませんので、早急な書き換えは控えますが、確たるソースの提示がない場合は書き換えます。

俊平太郎 2006年2月26日 (日) 05:33 (UTC)[返信]

1年以上お待ちしましたが、ソースの提示がないようなので、私の知識に基づいて本文を大幅修正しました。少々ぎこちない文章になっている感じもますので、改善をお待ちしております。--俊平太郎 2007年4月29日 (日) 10:57 (UTC)[返信]

反論ではないですが、少なくても21世紀初頭までに書かれた歴史学・教育学の事典類における教育勅語の制定過程の記事を読んだ限りでは、前史として明治天皇の意向で元田が作成した「教学聖旨」→「幼学綱要」を置き、その路線の延長上に「教育勅語」を位置づける見解が多く、芳川は命令を受けただけで、山縣は実質的にはと元田と井上による案に賛同しただけとする筋で書かれているようです〔例えば、「日本近代教育史事典」(平凡社1971年(項目執筆者:佐藤秀夫氏)〕。

ついでに言えば、「現代教育史事典」(東京書籍2001年/項目執筆者:高橋陽一氏)は山縣内閣の関与していないように書かれていますし、「日本歴史大辞典」(河出書房新社初版1978年/項目執筆者:家永三郎氏)に至っては『教育勅語を出そうとする要請は、明治天皇の侍講元田元孚が、儒教を国教として公定しようともくろんだところに、主として発している。(中略)伊藤博文・井上毅らは元田の国教制定に反対したが、自由主義思想の発展をおそれる点では、両者は共通の立場に立っていたので、結局井上は元田と協力して勅語の起草に当り、一八九〇(明治二三)年一〇月三〇日をもって、これを発するはこびとなった』と書かれています。一応、家永の見解はその後の「国史大辞典」(吉川弘文館1984年)では、海後宗臣・稲田次郎の研究によるとした上で井上を主著者として芳川・山縣も関与したものの、基本的には井上と元田が執筆したと修正されています。また、「世界歴史大事典」(冬至書房1986年/項目執筆者:大村正昭氏)が現在のウィキペディアの記事内容に一番近いようですが、『井上案は元田の内諾を得た上で、政府原案として天皇の内覧に供せられた。元田は天皇の命を受け、井上案の修正に当たるが原本の基本路線は修正されなかった』と書かれています。「日本史大事典」(平凡社1993年/項目執筆者:山住正巳氏)は、中村案・井上案・元田案があり、まず中村案が消えて元田が井上案に意見を加えたとし、「日本歴史大事典」(小学館2000年/項目執筆者:森川輝紀氏)は、単に地方長官会議を受けて山縣が井上に起草を依頼し、井上と元田によって草案が作成されたと記述されています。「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社1978年/項目執筆者:梅溪昇氏)は、起草のきっかけは山縣内閣成立に置くものの、元田ら天皇側近奉仕者による運動を重視しています。

なお、元田の「教学聖旨」・「幼学綱要」を前史として置いているのは、佐藤氏、家永氏、大村氏、梅溪氏で山住氏も簡単に触れています。一方、中村正直について触れている事典類は佐藤氏と大村氏、山住氏だけでした。--水野白楓 2007年11月23日 (金) 09:41 (UTC)[返信]

教学聖旨と幼学綱要については、現在本文中の「明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せ」「天皇側近の儒者元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており」のあたりがそれらを指しています。初めは教学聖旨や幼学綱要について具体的に言及しようと思ったのですが、教育勅語より7年も前の出来事を自然な形で書くことが出来ず、今のような抽象的な表現にとどまっています。不足と思われるのであれば執筆願います。ただし、稲田・海後以降の実証的な研究を踏まえて書いていただきたいと思います。稲田・海後以前は、元田を教育勅語の起草者として、教育勅語を教学聖旨・幼学綱要と単純に結びつける見方がありましたがこれは古い見方だと思われます。古い辞典類はしかたがないとしても、最近の辞典でこのような古い見方に基づくものがあるというのは少々驚きです。「国史大辞典」の教育勅語の項目には信を置けると思われますのでこれを参考となさっては如何でしょうか。--俊平太郎 2008年6月14日 (土) 04:40 (UTC)[返信]

外部リンクの「その他」

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外部リンクの「その他」に挙げられている「明治神宮」のものはWikipedia:外部リンクの選び方に適合していないように思います。「掲載すべきでない外部リンク」に該当しているのではないでしょうか。「検証不可能な記述によって読者に誤解を与えるようなサイト。」です。「以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」の部分の現代語訳がなぜか欠落しています。--大六天 2008年2月22日 (金) 06:46 (UTC)[返信]

誤用説メモ

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  • 金田一春彦「また、教育勅語では『一旦緩急アラバ』とすべきところを誤って、『一旦緩急アレバ』とやってしまい、文法的にまちがっているとは後で気がついたものの『綸言汗ほごとく』で改めようもなかった。」(『日本語』岩波新書55頁)
  • 高島俊男「この『一旦緩急アレハ』は『もし緊急の事態があったなら』という仮定法すなわち未然形でなければならぬところだから、『一旦緩急アラハ』でなければならない。それが已然形『アレハ』になっている。これでは『緊急の事態があったから』の意味になる。ハッキリ文法のまちがいである。」(『お言葉ですが…』164頁)

--Deepimpact会話2014年9月28日 (日) 20:08 (UTC)[返信]