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ノート:二条城

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将軍宣下の場所について

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報告冒頭部分に「徳川家康の将軍宣下と」部分に、Wikipedia:「要出典」をクリックされた方へを付けさせていただきました。私の持っております文献『信長・秀吉・家康の城』のP.71に「家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた」とあり、二条城ではなく伏見城と記載があります。また本文の創建部分によると、伏見城では「将軍宣下」、二条城では「拝賀の礼」と記載されており、「徳川家康の将軍宣下と」の記述は正確ではないかと思います。ただ、将軍宣下がどのような儀式であったのか、私自身に全く知識が無く、拝賀の礼も含めて将軍宣下とするならば、記述が誤りとまではいえなのかも、とも思えます。そこで、約1カ月間の経過期間をみまして出典明記が難しければ、「徳川家康の将軍宣下」という部分は除去されて頂ければと思っています。なおノート:徳川家康でも同様の議論しておりますので、参照してください。--ブレイズマン 2010年4月11日 (日) 16:44 (UTC)[返信]

コメントこんにちは、お疲れ様です。

私の手元にある書籍『よみがえる名城 白亜の巨城 徳川の城』でも同様に、「慶長八年(一六〇三)二月に伏見城で征夷大将軍補任の宣旨を受けた家康は、…(引用抜粋)」と記載されており、二条城では、3月に拝賀の礼と後に征夷大将軍就任の祝宴が行われたとあります。
出典とはなりえるかわかりませんが、インターネット上に3月27日が正式な征夷大将軍の任命ではないかという記述も見られます。ただし、場所は示されておりません。
宣旨というのは朝廷が発行する一種の公文書の名称で、提示した書籍では「征夷大将軍に任官する」旨が書かれたメモ書きを家康が受け取ったということが書かれています。つまるところ、伏見城で任官の儀式が行われたということではなく、その予定の書かれた文書が伏見城にいる家康に送られてきたということではないかと思われます。
拝賀の礼について調べてみたのですが分かりませんでしたので、「拝賀」について調べましたところ、「目上の人にお祝いの言葉をいう謙譲語」だそうです。拝賀の礼が、すなわち将軍宣下であるかについては、分かりませんでした。--ムカイ 2010年4月12日 (月) 14:28 (UTC)[返信]
コメント情報提供有難うござます。大変助かります。ノート:徳川家康でも追加報告させていただいておりますが、伏見城では、慶長8年2月12日に征夷大将軍の宣旨という文献を見つけました。ご指摘いただいてるホームページと徳川家康#征夷大将軍は、ほぼ同様の事が記載されていますので、二条城で3月21日、3月25日、ひょっとしたら3月27日も、何かが行われたと思われます。徳川家康の書籍は幸い沢山ありますので、一度調査し、判明次第ご報告させていただきます。ただ、いずれにも私のように勘違いする人もいるかもしれませんので、記載に誤りがないせよ、もう少し丁寧な説明がいるのではと思いました。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 16:19 (UTC)[返信]
報告その後文献を調べており『関ヶ原合戦と大坂の陣』P.166によりますと「伏見城において、将軍任官を伝える勅使を迎えた」とあり、二条城の記述はその後秀頼との面会まで記載が見つかりませんでした。二木謙一著者『徳川家康』の文献でも2月12日の記述のみで二条城の記述はありませんでした。徳富蘇峰著者『徳川家康(二)』P.46によりますと、2月12日「右大臣に任じ、征夷大将軍を拝し」とあります。また同ページ内は「而して三月二十五日参内した」とあります。二条城の本文にも「慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した」とありますので、二条城で拝賀の礼が取り行われたわけではなく御所で行われ、『徳川家康(二)』ではその時の様子が細かく記載されています。2月12日及び3月25日はある程度明確になりました。後はムカイ 氏にご紹介頂いた徳川家康の略歴のホームページにある3月21日「家康は二条城で正式な将軍宣下を受け」と3月27日「朝廷から正式な将軍宣下が行なわれた」の「正式」とは何をもって、また出典がどこにあるかですが現時点では見つける事が出来ませんでした。二条城の文献等も引き続き調査したいと思います。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 08:28 (UTC)[返信]

大日本史料総合データベース

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コメントノート:徳川家康/過去ログ2#将軍宣下の場所についてで「大日本史料で家康将軍就任の事は記述されていますので、一度ご覧になってはいかがでしょうか」とコメントを頂きました。その内容を調べてみますと、

  • 慶長8年2月12日-「徳川家康を征夷大将軍に宣旨」
  • 慶長8年3月21日-「伏見城より上洛して二条城に入城」
  • 慶長8年3月25日-「拝賀の礼を行い、併せて歳首を賀し奉る」
  • 慶長8年3月27日-「勅使を二条城に遣し、将軍宣下や歳首の件で、太刀馬代等を徳川家康に贈る」

と記載されているように思います。古文章に関しては知識がなく、解釈に誤りがありましたら指摘して頂ければと思います。これを見る限り、「二条城で将軍宣下が行われた」とは言えないのではないかと思われます。いずれにしても、大日本史料総合データベースを出典とすることは難しいと思われますので、引き続き調査したいと思います。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 12:15 (UTC)[返信]

報告北島正元著『徳川家康』P.162-163によりますと、3/12-征夷大将軍に宣旨、3/21-二条城に上洛、3/25-御所で「拝賀の礼」とあり、ほぼ大日本史料総合データベースと同様の記載がありましたが、3/27の記載はありませんでした。別に4/4-「公家、諸大名を饗応した」とあり、4/4から3日間二条城で能楽が行われたとあります。本文の二条城#創建にある1603年(慶長8年)部分が、調べた範囲では正確で、二条城で「徳川家康の将軍宣下」は出典を見つける事ができませんでした。出典明記がなければ、上記記載通り5/11前後に変更させていただきたいと思います。--ブレイズマン 2010年4月25日 (日) 15:35 (UTC)[返信]
報告上記に「二条城の文献等も引き続き調査したい」としておりましたが『二条城』を入手したところ、ほぼ北島正元著『徳川家康』と同様の記載されていましたが、P.41に「二十七日には二条城に勅使を迎え、将軍宣下の賀儀がおこなわれ」とおり、勅使親王をはじめ公家衆が二条城で祝意を表したとあります。このように見てみると、伏見城で宣旨、御所で拝賀の礼、二条城で賀儀という手順が徳川家光まで続いたと思われます。要出典の部分ですが、より正確に「徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ・・・」という内容に変更し、二条城#創建で調べた範囲の捕捉加筆を行いたいと思います。--ブレイズマン 2010年5月1日 (土) 08:14 (UTC)[返信]
チェック 出典明記が行われませんでしたので、上記精査内容に基づき変更させていただき、要出典テンプレートも除去しました。--ブレイズマン 2010年5月20日 (木) 06:40 (UTC)[返信]

必要な写真ありますか?

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二条城の記事で必要な写真があったらR-5までお伝えください!(04/09〆切)--R-5(Talk/Contributions/Wikimail/Userbox/Template) 2017年4月2日 (日) 05:03 (UTC)[返信]

・故ダイアナ元皇太子妃が昭和61年の元離宮二条城に訪問された際、西陣織の振袖を贈られダイアナ元妃が振袖を羽織っている写真があればウィキペディアに載せていただきたいです。--Ninijyo会話2020年7月21日 (火) 06:50 (UTC)[返信]

元離宮二条城の正式名称へ名称変更について

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  • (反対)城廓記事の場合、史跡としての名称ではなく基本的に「城としての名前」が記事名になっているものと理解しています(名古屋城名古屋城跡金沢城金沢城跡 etc...)。また、記事名を元離宮二条城にした場合、主題から外れる「さまざまな二条城」節にある元離宮二条城でない城の記述は全除去が必要ですが、これらを個別の城記事にしてもサブスタブにしかならないでしょう。築城が慶長8年(1603年)で離宮になったのは明治17年(1884年)と、この時点で280年余。京都市に下賜されて「元離宮二条城」という呼称になったのは昭和に入ってからで、現在までに79年。比べるまでもありません。--KAMUI会話2018年10月13日 (土) 20:31 (UTC)[返信]
  • おっしゃている事に対して正しい事を述べられていると思います。それなら、旧二条離宮 二条城の史跡の名前でもう一度、考え直してみます。よって改名を行いません。--Ninijyo会話2018年10月13日 (水) 21:54 (UTC)[返信]

旧二条離宮〈二条城〉の正式名称へ名称変更について

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  • 二条城旧二条離宮〈二条城〉へ改名。旧二条離宮〈二条城〉は過去に徳川将軍上洛の際の居城として、また明治17年から昭和14年までの間は皇室の離宮として活躍した歴史的な建物です。そのために、正式名称へ名称変更を行いたいと思います。正式名称への名称変更のため。議論は二条城にて。--Ninijyo会話2018年10月13日 (水) 23:14 (UTC)[返信]
  • (反対)理由は上に同じ。というか、上で城廓記事の場合、史跡としての名称ではなく基本的に「城としての名前」が記事名になっていると書きましたが、それが理解できてたならこの提案自体がありえません。「江戸城は1868年から天皇の住まいになっているから皇居に改名しよう」というのと大差ないんじゃないですか。ついでに言えば、改名を提案しているその文字列コトバンクから持ってきたようですが、それをそのまま改名提案先にして、それがおかしいと気が付かない時点で、とてもあなたの提案がまともなものとは思われません。--KAMUI会話2018年10月14日 (日) 07:20 (UTC)[返信]
  • おっしゃりたい事は分かりますが、昔の事や歴史的な見解に囚われすぎていませんか。私は二条城の正式名称を文化庁の公式ホームページを見て、二条城〈旧二条離宮〉の正式名称に充てる事にしました。再度、お考え直して頂けると幸いです。また、言動に対して攻撃的だと感じました。--Ninijyo会話2018年10月14日 (水) 08:05 (UTC)[返信]
  • 反対票しかない状態での強行移動はおやめください。差し戻しました。また賛成票多数であってもWikipedia:合意形成に基づき1週間は待つようにお願いします。--海ボチャン会話2018年10月14日 (日) 08:33 (UTC)[返信]
  • 反対 文化庁のホームページというのはこちらでしょうか?「旧二条離宮(二条城)」とありますが、これは丸括弧を含めたのが正式名というわけではなく、広く二条城として知られている旧二条離宮の意味でしょう。どちらかといえば旧二条離宮が正式名になるのかも知れませんが、「二条城」で広く浸透しているのは火を見るよりも明らかなので、改名の必要はまったくありません。--切干大根会話2018年10月14日 (日) 08:58 (UTC)[返信]
  • コメント コトバンクを見ましたが、「旧二条離宮〈二条城〉」との表現は国指定史跡ガイドが出典です。国指定史跡ガイドを以て正式名称と主張するのは無茶でしょう。--切干大根会話2018年10月14日 (日) 10:57 (UTC)[返信]
  • 二条城 - 京都府
  • 元離宮二条城 - 京都市
  • 二条城 - コトバンク(ブリタニカ国際大百科事典、デジタル大辞泉、百科事典マイペディア、世界大百科事典 、大辞林、日本の城がわかる事典etc)
  • 旧二条離宮〈二条城〉- コトバンク(国指定史跡ガイド)
  • 様々と考えることがありました。また、様々なご鞭撻ありがとうございました。二条城の名称は二条城が一番なのだとつくづく考えさせていただきましたが、もうしばらく1週間は様子をみたいと思いますので、しばらくお待ちください。--Ninijyo会話2018年10月14日 (日) 11:56 (UTC)[返信]
  • 反対 前節での改名提案でもそうですが、提案者からの出典提示の無い改名提案には同意しかねます。--Challemoni会話2018年10月14日 (日) 12:51 (UTC)[返信]
  • 反対 二条城は歴史的変遷があり、当記事はそれを総合的に扱っている。正式名称云々以前に、記事が対象とする主題は、現存する建物ではなく全てに及んでおり、離宮であった期間の方が短く、現状では離宮についての記述も少ない。大半が江戸時代の二条城についてである。二条離宮または旧二条離宮について特記したければ、リダイレクトを解除して立項すればいい。いずれにしろ記述が不足している部分があり、整理して見やすくする必要があるが、二条城をフロントページにして、時代ごとの各論にリンク誘導するスタイルの方が加筆しやすい。--Quark Logo会話2018年10月14日 (日) 16:18 (UTC)[返信]
  • 反対 提案の「旧二条離宮〈二条城〉」の文字列が正式名称であるという出典提示がありませんし、そもそもWikipediaの方針としては項目名として重要視されるべきは「認知度の高さ」であって正式名称か否かではありませんので(Wikipedia:記事名の付け方)、勘案すると当該記事には「二条城」が最適だと判断して反対です。また当該記事では提案前に改名が実施される・提案者様以外の手で改名提案がなされるといった状況ですが、提案者様におかれましては一度Wikipediaの方針に目を通して頂くよう強く望みます。--Saigen Jiro会話2018年10月15日 (月) 18:52 (UTC)[返信]
  • 反対意見多数のため、改名を行いません。--Ninijyo会話2018年10月21日 (日) 22:36 (UTC)[返信]
  • 返信 (Ninijyoさん宛) Wikipedia:改名提案へ改名中止の報告を提案形式で新規告知されていますが、この様な告知は必要はありません。よって、Wikipedia:改名提案から当該告知は除去させて頂きました。代わりに、既に告知済み(10/10(水))分に取り下げの報告を代行させて頂きました。--Challemoni会話2018年10月21日 (日) 05:46 (UTC)[返信]

元離宮二条城の正式名称へ名称変更について

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  • 反省意見に対して何も考慮を加えなかった事を深く反省します。本題ですが、元離宮二条城管理事務所の方に正式名称の確認をするため2度電話で伺いました。電話対応をして頂いた方は、二方とも違う元離宮二条城管理事務所の方でしたが正式名称は「元離宮二条城」であるとおっしゃっていました。また、二条城の正式名称の確認のために京都府庁にも電話をかけました所詳しい事は、元離宮二条城管理事務所に伺ってほしいとおっしゃっていました。ウィキペディアの操作に不慣れな部分はどうかお許し下さい。--Ninijyo会話2019年5月8日 (水) 23:10 (UTC)[返信]
  • 今の論議していることは改めて論議をしたいということです。また、建物の詳細な名称より二条城という歴史において城や離宮時代を経て現在があるため名称変更を申し入れました。--Ninijyo会話2019年5月9日 (木) 03:03 (UTC)[返信]
  • コメント 「正式名称」とやらに固執する理由が分かりませんが、現在の呼称が元離宮二条城というだけです。歴史的な建造物に正式名称もなにもないでしょう。--切干大根会話2019年5月9日 (木) 05:57 (UTC)[返信]
  • 歴史的な建造物に正式名称もなにもないとなると、解説が時には難しくなりませんか?切干大根さんがそうおっしゃるようなら、そのようにしますが。--Ninijyo会話2019年5月9日 (木) 07:49 (UTC)[返信]
  • 前々回の事の反省を今回への考慮へ繋げられなかった点は深く反省しています。ですが、同じ指摘を繰り返ししないでください。また、本や記事などの出典ではなくとも、二条城の正式名称を本部の方に事実を直接電話で聞く事はいけないのですか?--Ninijyo会話2019年5月11日 (土) 22:25 (UTC)[返信]
  • コメントいただきありがとうございます。そうですか。気をつけます。京都府観光連盟公式サイトや京都市観光協会公式サイトで元離宮二条城が正式名称や公式名称と知る事ができます。--Ninijyo会話2019年5月12日 (日) 04:59 (UTC)[返信]
コメント 「今回は」ということですが、今後も同様の改名提案を提起するお考えでしょうか。Wkipediaは編集者同士の合意で成り立っているため、過去の議論であろうと各議論参加者のコメントには配慮を払うべきであり、「新たに改名提案を提起」すると「過去の反対意見は無に帰する」わけではありませんので、今後も同様の改名提案を提起するおつもりであれば過去に寄せられた各コメントを読み十分な反論を準備してからにするようご注意下さい。議論にも各議論参加者の時間等のコストがかかりますので、これまで同様の 提起→反対→取り下げ→提起→… の繰り返しが続くようであればコミュニティを消耗させる利用者として投稿ブロック対象となる場合があるのでご注意下さい。--Saigen Jiro会話2019年5月15日 (水) 11:37 (UTC)[返信]

記事内容に関する懸念につきまして

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本ノートページに度々登場されているNinijyoさんですが、問題編集等でWikipedia:投稿ブロック依頼/Ninijyoで投稿ブロックの審議中です(今のところ無期限ブロックになると思います)。投稿ブロック依頼の審議でも指摘したのですが、Ninijyoさんの投稿には、

  1. 文法の間違いを直すという名目で、文法に問題のない文章をいじる編集
  2. 日本語として破綻している編集
  3. 過剰・異様なパイプリンク
  4. 記事テーマや出典から連想したことをそれっぽく紛れ込ませた編集
  5. 足りない情報の辻褄を適当に合わせて膨らませた誤情報

という傾向があり、Ninijyoさんが500回以上編集した本記事では、上記の問題があることが懸念され、特に④⑤は誤情報の拡散となり、問題が深刻です。私の方でも若干チェックし直しましたが[1]、500件以上の対応は難しくあきらめました。出典が付いている記述でも、出典にない情報が含まれていたり、出典とは違うことが書かれている可能性があるということを、共有いただければと思います。問題に気が付いた方は修正いただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。--呉野会話2024年4月24日 (水) 10:44 (UTC)[返信]

その件に関しましては、他の編集をされている皆さまやヴィキぺディアをご覧になる皆さまに対し大変ご迷惑をおかけし申し訳なく存じます。
しかしながら、私は何処かで理不尽で過度に嫌厭されているような心境にあります。
私自身、無期限の編集投稿ブロックは免れない事は覚悟しております。よってこれが私の最後の意思表明となることと存じます。
これ以降の処遇については私自身が一切介入する事はございません為、最後のコメントとさせていただきます。失礼致します。--Ninijyo会話2024年4月24日 (水) 12:32 (UTC)[返信]
Ninijyoさんの謝罪が言葉だけのものであること、全く反省していないことが良くわかるコメントですね。謝罪とは言葉のみで成立するものではありません。貴方が与えた被害を軽視しすぎです。--呉野会話2024年4月25日 (木) 13:17 (UTC)[返信]