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ノート:セカイ系/参考文献抜書

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他のサブノート

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参考文献

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  • 波状言論09-a号 2004年 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」前編 
  • 波状言論10-a号 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」後編 
  • 波状言論15号 新海誠インタビュー「セカイから、もっと遠くへ」前編
  • 波状言論16号 新海誠インタビュー「セカイから、もっと遠くへ」後編
  • 波状言論21号「猶予のセカイを超えて」前編
  • 波状言論22号「猶予のセカイを超えて」後編
  • 波状言論美少女 『波状言論臨時増刊号 HAJOUHAKAGIX 美少女ゲームの臨界点』
  • 『社会領域の消失と「セカイ」の構造』笠井潔 小説トリッパー 2005年春号
  • 『飛躍の論理』前田塁 「文學界」2005年3月号 
  • 『網状言論F改』東浩紀編著 青土社 2003年 これにはセカイ系への言及は無いので参考文献としてあげるのは不適切。
  • 『右翼と左翼』浅羽通明 幻冬舎 2006年 セカイ系への言及は一箇所だけで、重要なものではないので参考文献としては不適切。
  • 『「人間嫌い」の言い分』 長山靖夫 光文社 2004年 セカイ系への言及は一箇所だけで、重要なものではないので参考文献としては不適切。
  • 『ゲーム的リアリズムの誕生-動物化するポストモダン2』東浩紀著 講談社<講談社現代新書> 2007年
  • 『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』東浩紀著 講談社<講談社BOX> 2007年

セカイ系参考文献からの抜書き

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  • 浅羽 「『右翼と左翼』浅羽通明 幻冬舎 2006年
    • 浅羽 p.199 「「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット以来、自分の危機と世界全体の危機とがシンクロしていく物語を「セカイ系」と呼びます」
  • 東2003『網状言論F改』東浩紀編著 青土社 2003年 セカイ系への直接言及は無い。(セカイ系という言葉がまだ広がっていなかった時期である。)
  • 東2004a 波状言論09-a号 2004年 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」前編 
    • 東浩紀「上遠野さんご自身はセカイ系や萌えを意識されていませんが、「ブギーポップ」の成功は、緒方剛志さんのイラストの魅力もあって、結果的に現在のセカイ系や萌えのスタイルを作り上げたと言っていいと思います。」
  • 東2004b 波状言論10-a号 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」後編 
    • 東浩紀「いま「セカイ系」とか「萌え」とか言われている流れは、おそらく長く続かない。読者層も限られているし、そもそも「きみぼく世界」+「世界の破滅」でそんなに作品が作れるわけがない。セカイ系とか萌えとかは、あくまでもギャルゲー/エロゲーに特有の方法論で、その生産力もここ数年頭打ちです。となると、設定をきっちり作り込むとか、ジャンル的な記憶を活かすとか、そういった方法論がもういちど回帰してくるはずです。」
  • 東2004c 波状言論15号 新海誠インタビュー「セカイから、もっと遠くへ」前編
    • 東浩紀「最近では「セカイ系」という言葉があって、あの定義にはネットで諸説あるみたいですけど、僕は、『ほしのこえ』の最初の「世界、って言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのはケイタイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」というミカコの台詞がセカイ系的想像力の特徴をよく表していると思っています。そういう点で、新海さんの作品は、ポスト・ガイナックス、ポスト・エヴァンゲリオンの時代におけるSFとアニメの交差点にしっかりと位置している。西島さんが今年春に出版された『凹村戦争』は、まさにそういうセカイ系的作品群への応答として書かれたわけですね。」
  • 東2004d 波状言論16号 新海誠インタビュー「セカイから、もっと遠くへ」後編
    • 東浩紀「最初にも述べたように「セカイ系」という言葉があって、新海さんの作品はその代表作だとされています。そして、西島さんは、その流れへの応答として『凹村戦争』を出版したとあちこちで発言されている。」
    • 東浩紀 「『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は重要な作品ですね。これは佐藤心が言っていることだけど、村上春樹が、セカイ系の小説や一部の美少女ゲームが抱える妙な思弁性を準備したのは、おそらく間違いないと思いますよ。『AIR』の麻枝准は村上春樹ファンだというし、新海さんもそうだったとなると、これは実際の影響関係としても論証可能かもしれないですね。」
  • 東2005a 波状言論21号「猶予のセカイを超えて」前編
    • 東浩紀 「西尾さん、上遠野さん、新海さん、西島さん、いずれも何らかのかたちでセカイ系的な想像力と交差した作品を発表している方々ですが、僕は、神林さんの作品は――元長柾木さんが『天国にそっくりな星』(1993年、ハヤカワ文庫版・2004年)の解説(ハヤカワ文庫版所収)(註01)で書かれていたように――、まさにそのセカイ系的想像力の先駆と言えるのではないかと考えているのです。」
    • 註01:『天国にそっくりな星』の解説: 2004年に、ハヤカワ文庫から再版された『天国にそっくりな星』は、美少女ゲームシナリオライター・元長柾木氏が解説を担当している。ここにおいて氏は、セカイ系を「世界をコントロール可能なものとして捉えるようになった時代」を背景として成立した物語とし、神林長平氏を「セカイ系の先駆として捉えることができる」と論じている。
  • 東2005b 波状言論22号「猶予のセカイを超えて」後編
    • 東浩紀 「自意識が強く、世界全体を説明する原理を持っていない人間が、どのようなかたちで世界との関係を構築するのか、という問題。そこから出発した神林さんの作品は、結果として、自意識が強い主人公と、無限に遠い他者が直接衝突し、両者をかろうじてつなぐのが言葉だったり虚構だったりするいびつな世界を結晶化させていった。それは、おそらく、元長柾木さんが言ったように「セカイ系」の感覚とつながっている。」
    • 「セカイ系の特徴としてしばしば言われるのは、自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま、思弁的かつ直感的に「世界の果て」とつながってしまうような想像力です。いままでのインタビューでも浮かびあがってきたように、それは確かに神林さんの作品の特徴でもあります。ただ、いまのセカイ系――というか、ライトノベル一般においては、学園や恋愛というモチーフがとても強力に入っている。そこは神林さんの作品と違いますね。」
    • 「よく言われるように、セカイ系は決して新しくない。自意識と世界の果て、というモチーフは、ある意味で文学の基本テーマそのものなわけですから。ただ、それがサブカルチャーと密接に結びついたのは新しい現象かな、とも思います。 その点で、神林さんのSF作品は、自意識の発露とメタフィクションとサブカルチャーが結びつくという文化的交差点の可能性を、20年前に示したものだと言えます。」
  • 東2007a『コンテンツの思想』東浩紀著 青土社 2007年
    • 東2007a p.7-1 「「セカイ系」という言葉は、主人公とヒロインの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる歪な想像力を意味している。」
    • 東2007a p.7-2 「新海氏の『ほしのこえ』がセカイ系の典型として捉えられ」
  • 東2007b『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀
    • 東2007b pp.96-97「それはひとことで言えば、主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的問題に直結させる想像力を意味している。典型的な作品としては、高橋しんの二〇〇〇年から二〇〇一年にかけてのマンガ『最終兵器彼女』、新海誠の二〇〇二年のアニメ『ほしのこえ』、秋山瑞人の二〇〇一年から二〇〇三年にかけての小説『イリヤの空、UFOの夏』が挙げられることが多い。「セカイ系」という言葉そのものは二〇〇三年ごろより流行し始め、本書執筆の時点では早くも言葉として古くなり始めているが、セカイ系に分類可能な作品が減ったわけではない。むしろ、セカイ系の想像力はいまやオタクたちの市場全体に拡散し、そのためかえって語られなくなったと考えたほうがよい。前に挙げた上遠野の『ぼくらは虚空に夜を視る』も、谷川の『涼宮ハルヒの憂鬱』も、ともにセカイ系の特徴を備えている」
    • 東2007b p.98「セカイ系の小説は、そのようなキャラクター小説の言葉の特性を最大限に活かして作られている。そこでは、一〇代の平凡な主人公を取り巻く平穏な学園生活の描写で物語が始まり、かつその日常性を維持したままでありながら、ヒロインが戦闘機のパイロットであったり(『イリヤの空、UFOの夏』)、同級生が宇宙人であったり(『涼宮ハルヒの憂鬱』)、学園生活そのものが仮想世界であったりする(『ぼくらは虚空に夜を視る』)、非現実的な世界が淡々と描かれていく。日常と非日常を直結するそのような物語展開は、作者の想像力や読者たちの感性よりまえに、前近代の語りとも近代の言文一致体とも異なった、ポストモダンのハイブリッドな文体によって可能になっているのだ。」
  • 東2007c「『CROSS†CHANNEL』について」『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』
    • 東2007c p.345「セカイ系の定義は難しいが、ここではかりに、「私」の悩み(ラカン派精神分析で言うところの想像界)と、「世界の果て」に向けられた荒唐無稽な意志(現実界)を、「他者とのコミュニケーション」すなわち社会的媒介(象徴界)なく結びつけてしまう想像力と捉えておこう。」「私たちは、象徴界が失墜し、確固たる現実感覚が失われ、ニセモノに満ちたセカイに生きている。その感覚をシステムで表現すればループゲームに、物語で表現すればセカイ系になるわけだ。」
  • 東2007d 「crypto-survival noteZ」『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』
    • 東2007d pp.715-716「僕がそこで言うつもりなのは、まずは、それら新しい作品群を「きみとぼく」小説と呼ぶにしろ「セカイ系」と呼ぶにしろ「現代ファンタジー」と呼ぶにしろ、①その主な特徴はラカン=ジジェクの言う「現実界」と「想像界」を直結させていることにあり、②それはポストモダンの物語作家が抱える必然的な「病」(柄谷行人が「意味という病」と言ったときと似た意味で)なのだ、という基本的な主張である。さらに、③作品の多くは、いわば<異化された現代社会>(日常の世界が舞台になっていながら、吸血鬼がいたり名探偵がいたりメイドがいたりする)を舞台として採用しており、その原因はどうやら、④確固たるリアリティ=大きな物語が失墜した現代においては、もはやそのような「可能世界」を介してしか人々のアイデンティティが形成できないことにある、というのも重要な論点になるはずだ。自分の周囲の世界をリアルだと感じるためには、一回荒唐無稽なフィクションの回路を通らなければいけない、そういうねじれこそが、佐藤心がいう「現代ファンタジー」の本質なのではないか。」
  • 笠井2004a 『リアルの変容と境界の空無化』笠井潔 『空の境界』(奈須きのこ)下巻解説として所収 2004年 講談社 
    • 笠井2004a pp..461-462  「闘う少女と無力な少年というキャラクター配置は、高橋しんのコミック「最終兵器彼女」、新海誠の自主制作アニメ「ほしのこえ」、秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』など、「セカイ系」と呼ばれるオタクカルチャー作品とも無視できない共通点がある。」
    • 笠井2004a p.472  「戦闘を宿命化された少女と、それを傍観する以外ない無力な少年という「セカイ系」的な構図」「「セカイ系」的な構図には、「日常=平凡な少年」と「非日常=戦闘美少女」という具合に「日常―非日常」の対立項が曖昧に残存している」
  • 笠井2004b 『「近代文学の終わり」とライトノベル』笠井潔(『総特集 西尾維新』 ユリイカ9月臨時増刊号 青土社 2004年所収)
    • 笠井2004b p.46  「舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」…(中略)…この作品には、ジャンルX的な「セカイ系」の主題を異化するモチーフが込められている。」
    • 笠井2004b p.49  「「脱格」四作家のなかで特異な位置にあるのが、西尾維新である。「セカイ系」の影響が濃厚な舞台設定にもかかわらず、…(中略)…西尾のスタンスは微妙に異なっている。
  • 笠井2005 『社会領域の消失と「セカイ」の構造』笠井潔 小説トリッパー 2005年春号
    • 笠井2005 p.37 「秋山瑞人のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』、高橋しんのコミック「最終兵器彼女」、新海誠の自主制作アニメ「ほしのこえ」などの作品は「セカイ系」と呼ばれている。(中略)この三作には物語の構造という点で無視できない共通性が認められる。」
    • 笠井2005 p.38-a 「セカイ系への「新世紀エヴァンゲリオン」の影響は、SF的な世界戦争の「敵」を正体不明なものとして設定する点には尽きない。(中略)たとえば巨大戦闘ロボットものという点で、「新世紀エヴァンゲリオン」は「機動戦士ガンダム」と「ほしのこえ」を繋いでいる。久美沙織が指摘しているように、無力な少年と戦闘美少女という対立の構図はセカイ系作品に共通するが、これも「新世紀エヴァンゲリオン」が「機動戦士ガンダム」引き継ぎ、徹底化したものといえる。」
    • 笠井2005 p.38-b 「戦闘美少女の陰惨化はセカイ系に共通して認められるが、その画期をなしたのは、やはり「新世紀エヴァンゲリオン」だろう。」
    • 笠井2005 p.38-c 「セカイ系作品の戦闘美少女たちは例外なく精神的外傷に苦しんでいる。」
    • 笠井2005 p.39 「セカイ系におけるキミとボクの恋愛空間が、ようするに「セカイ」である。セカイは、現実的な日常空間でも妄想的な戦闘空間でもない。前者に属する無力な少年と、後者に属する陰惨化した戦闘美少女が接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域がセカイなのだ。」
    • 笠井2005 p.43 「セカイ系作品賀社会領域を方法的に消失するのは、たんに「恣意的な『関心』に従属する選択」ではない。それは社会領域を構成する意思の失調や不全性の、時代的に必然である表現なのだ。」
  • 神林2005 波状言論21号「猶予のセカイを超えて」後編
    •  神林長平「セカイ系という言葉自体は、今年(2004年)の1月に笠井潔さん、山田正紀さんからうかがったのが最初です。山田さんたちからは、前から神林はそういうもの書いていた、と言われたのを憶えています。」
  • 佐々木 『「きみ」と「ぼく」の壊れた「世界/セカイ」は「密室」でできている?』佐々木敦(『総特集 西尾維新』 ユリイカ9月臨時増刊号 青土社 2004年所収)
    • 佐々木 p.159a 「『最終兵器彼女』は…(中略)…この作品はその筋で圧倒的な支持を受けることになり、当然のようにアニメ化&ゲーム化されて更なる人気を博した。そしてそれをきっかけにして、似たようなシチュエーションを持つ作品群が、巨大なマーケットを擁する「アニメ=ゲーム=ライト・ノヴェル」の三位一体シーンにおいて、相次いで登場してくることになり、いつしか「きみとぼく系」とか「セカイ系」などと称されることになったわけだ」
    • 佐々木 p.159b 「「セカイ系」とは「学園ラブコメ」と「巨大ロボットSF」の安易(であるがゆえに強力)な合体であって、つまり「アニメ=ゲーム」の二大人気ジャンルを組み合わせて思い切り純度を上げたようなものである」
    • 佐々木 p.159c 「「萌え」のフォーカシングと「物語=ゲーム=世界(セカイ)」の「小さな関係性」への収縮と「大問題」への拡張が同時に起こった。」
    • 佐々木 p.160 「「セカイ系」とは一種のミニマリズムであり、キャラクターのインフレーションというマルチプレックスな「世界」への反動としてある。」
  • 佐藤 波状言論09-a号 2004年 上遠野浩平インタビュー「ブギーポップの彼方に視えたもの」前編
    • 佐藤心「上遠野さんの「ブギーポップ」は、しばしば「セカイ系」と呼ばれる小説の代表格みたいな扱いをされますけど、「セカイ系」が自意識の問題に類比して語られるのに対し、上遠野さんの方法論は、むしろ自意識を回避する方向ですよね。」
  • 長山 『「人間嫌い」の言い分』 長山靖夫 光文社 2004年
    • 長山 p.48-49 「そういえば、おたく用語のひとつに「セカイ」系というものがある。これは主人公などの作中人物の閉じた内面世界が、実はセカイそのものの壮大な構造設定とシンクロしているというもので、そのような設定を帯びた作品が、最近のアニメやライトノベルでは非常に多くなっている。その先駆けは庵野秀明監督のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』あたりだと思われる。また新海誠監督のアニメ『ほしのこえ』に登場した「ケータイの届く範囲が世界のすべてだと思っていた」という台詞は、若者の実感を見事に表現していると話題になった。」
  • 西島2004 波状言論16号 新海誠インタビュー「セカイから、もっと遠くへ」後編
    •  西島大介 (『凹村戦争』(ハヤカワJコレクション、2004年)についての発言)「僕は世の中から2年ぐらい遅れてセカイ系的なものを意識しているんですが、一通りセカイ系と呼ばれる作品を読んで、もちろん『ほしのこえ』も含めてですけど、一方で僕のなかで違和感なりこれでよいのかという問題意識がありました。」「だからセカイ系的な設定を用いながらも、最終的には反セカイ系というか脱セカイ系的なところに落とし込まないとダメだな、と思ったんです。いちばんオーソドックスなセカイ系的な価値観を取り込んで、そこからいかに脱出できるかというのが最初のテーマとしてありました。」
  • 波状言論美少女 『波状言論臨時増刊号 HAJOUHAKAGIX 美少女ゲームの臨界点』編集部作成の注(原本が手に入らないので『総特集 西尾維新』 ユリイカ9月臨時増刊号 青土社 2004年p.159より孫引き。)
    • 波状言論美少女/定義 「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。」
    • 波状言論美少女/代表作 新海誠のアニメ「ほしのこえ」、高橋しんのマンガ「最終兵器彼女」、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』
  • 前田2005『飛躍の論理』前田塁 「文學界」2005年3月号 
    • 「私が世界と直結する『セカイ系』という『キブン』もまた、厳然と存在する中間領域に目をつぶることによって、はじめて成り立つものでしかない」「構想として存在するはずの経済野歴史の問題をいっさい描かない」
  • 元長 『パブリック・エナミー・ナンバーワン』元長柾木 講談社MOOKファウスト第五号所収 講談社 2005年
    • 元長 p.221 「上遠野作品も、セカイ系に分類されることが多い。」
    • 元長 pp.221-222 「この語がインターネット上で現れた頃は「ポストエヴァンゲリオン症候群」と呼ばれていた。具体的には「キミとボクの学園ライフを典型とする私的な小状況が、世界の破滅をめぐる人類的な大状況と、いかなる媒介性もなく直結しているタイプの物語」といったものである。
    • 元長 p.222 「セカイ系の代表例として挙げられるのが多いのが、高橋しん『最終兵器彼女』、新海誠『ほしのこえ』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』の三作品である。これらの作品に共通しているのは、主人公達の恋愛関係と、背景世界における大状況=戦争が無媒介的に繋がっている点である。このことをもって、登場人物や作者、そして読者の自意識過剰、社会性・社会経験の欠如が批判されることが多いのだが、」
    • 元長 pp.222-223「「人間とは何か」「世界とは何か」などハードウェアに視線を注ぐ通常の物語に対して、「人間と世界はどのように接続されているか」に注目するセカイ系は、一般的な印象に反して社会をその射程に入れたジャンルであると言える」
    • 元長 p.223-a「さらにセカイ系の特徴として付け加えるとするならば「成長」という観念に対する拒絶感である。」
    • 元長 p.223-b「セカイ系に分類される作品のと登場人物達の多くは、子供は成長して大人にならなければならない、というパラダイムに対して不信感を抱いている。」
    • 元長 p.223-c「「主人公の自意識過剰が世界を滅亡へと導く作品群」であるといった種類の誤解を喚起してしまうのでは、問題を矮小化させることになる」
    • 元長 p.223-d「筆者としては、偏りを排するために、このジャンルを上遠野浩平と清涼院流水に代表させ、高橋しんや新海誠や秋山瑞人は、人間と世界の関係を描く他の作家たち、例えば木城ゆきと、川上稔、大暮維人、西尾維新、うえお久光などといった人々と同様に、例の一つに留めて置く方が良いだろうと考えている。」
    • 元長 p.224「現代のセカイ系に直接繋がる「原点」というべき作家は綾辻行人ではないだろうか。」
    • 元長 p.227「清涼院がミステリの持つ「セカイ系性」を異様なイマジネーションとともに明らかにした」
    • 元長 p.228「清涼院は『カーニバル・イヴ』において、自身の分身とも言える濁暑院溜水の口を借りて「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指してい」たと述べる。セカイ系という語は二〇〇二年にインターネット上で発生したものだが、実質的には一九九七年におけるこの宣言を、セカイ系という潮流の始まりと看做して良いかも知れない。そして清涼院による「セカイ系宣言」の翌年、上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』によってデビューする。」
    • 元長 p.229「つまりライトノベルとは、ひとつの文学形式である。文学形式である以上、それを内面で特徴づける何かがあることになる。その何かが浮上してきた時点で、ライトノベルはジュブナイルから枝分かれしたのだ。その「何か」とはどのようなものか。筆者はそれこそが「セカイ系的なもの」であり、そのうちの一つが「清涼院的なもの」ではないかと考えている。(中略)世界をコントロールしようという意志のことである。この意志は上遠野作品にも息づいている。」
    • 元長 p.237「「上遠野的なもの」とは、この「成長という観念への拒絶の意志」である。そしてこれこそが、セカイ系のもうひとつの根幹概念である。
    • 元長 p.243「筆者が清涼院と上遠野にセカイ系(あるいは現代文芸)を代表させようとするのは、彼らが「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つのセカイ系の根幹概念をそれぞれ代表するからである。それらの意志こそはジュブナイルとライトノベルを分かつものであり」