ドミンゴス・セケイラ
表示
(ドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラから転送)
ドミンゴス・セケイラ Domingos Sequeira | |
---|---|
自画像 | |
生誕 |
1768年3月10日 ポルトガル、リスボン |
死没 |
1837年3月8日 イタリア、ローマ |
ドミンゴス・セケイラことドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラ(Domingos António de Sequeira、 1768年3月10日 – 1837年3月8日)はポルトガルの画家である。ジョアン6世の宮廷画家を務めた。
略歴
[編集]リスボンの貧しい家に生まれた。家族の姓はEspírito Santoであったのを、1782年から、より高貴な印象をあたえるために de Sequeiraと名乗って活動をするようになった。リスボンの美術学校で絵を学んだ後、1788年にローマに移り、人物画を得意とする画家、アントニオ・カヴァルッチ(Antonio Cavallucci: 1752-1795)の弟子になった。1793年にローマのアカデミア・ディ・サン・ルカに入会を認められた。1795年にリスボンに戻るが、鬱症に陥り、3年間修道院で過ごすことになった。1802年に王太子ジョアン6世の宮廷画家に任命され、リスボンのアジュダ宮殿の美術品を監督し、マリア・フランシスカ・ベネディタ・デ・ブラガンサといった王族の女性に絵を教え、1806年に海軍学校(Academia de Marinha)の教授もした。ナポレオン戦争中の1808年にポルトガル王室はブラジルに遷都し、1821年に王室はリスボンに復帰するが、共和的な思想に共感を抱いていたドミンゴス・セケイラは、1823年に追放されて、パリに移らなければならなかった。1826年にはローマに移るが、1832年には重病で絵を描けなくなり、1837年にローマで没した。
肖像画や宗教画を描いた。
作品
[編集]-
洗礼者ヨハネの説教
-
東方三博士の礼拝 (1828)
参考文献
[編集]- Maria Alice Mourisca Beaumont: Domingos Antonio de Sequeira-Desenhos. Museu Nacional de Arte Antiga, Lissabon 1975.
- Alexandra Curvelo, Petra Kruse (изд.): Museu Nacional de Arte Antiga, Lissabon.. Ausstellungskatalog. Bonn 1999, Dictionary of National Biography. — L.: Smith, Elder & Co..