鄧雨賢
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(トウ雨賢から転送)
鄧 雨賢(とう うけん、Teng Yu-hsien、1906年7月21日 - 1944年6月11日)は、日本統治時代の台湾の作曲家。唐崎夜雨のペンネームでも活動し、後に東田暁雨という日本名に改名した。
生涯
[編集]桃園県龍潭郷出身。広東省嘉応州鎮平県(現在の梅州市蕉嶺県)から移住した客家人の子孫。父の鄧盛猶が台湾総督府から台北師範学校(現在の国立台北教育大学)の漢文教師に招かれたため、3歳で父に従って台北に移住。1914年、艋舺公学校に入学した。1921年、15歳の時に台北師範学校に入学し、オルガンやマンドリンなどの西洋楽器に接した。1925年に卒業後に、大稲埕の日新公学校に勤務するが、24歳の時に日本に渡って作曲を学んだ。
1930年に台湾に戻り、台中地方裁判所の通訳を務めた。1932年、文声曲盤公司というレコード会社に入社し、『大稻埕行進曲』を作曲した。翌年、コロムビアレコードに移籍し、『望春風』『月夜愁』などの歌曲を作曲した。
1937年、台湾総督に小林躋造が就任すると「皇民化」政策が推進され、漢文歌曲は禁止された。『望春風』『月夜愁』などの曲が軍歌に書き換えられ、鄧雨賢は大きなショックを受けた。1940年に台北を去り、新竹県芎林郷で小学校の教師をするようになった。その後、健康状態が徐々に悪化し、1944年に肺疾患と心疾患により死去した。
作品のうち、『雨夜花』『望春風』『月夜愁』『四季紅』の4作品が特に有名で、4曲合わせて「四月望雨」と呼ばれる。
作品
[編集]- 1932年
- 大稻埕行進曲
- 夜裡思情郎
- 十二歩珠涙
- 挽茶歌
- 汝不識我我不識汝
- 1933年
- 1934年
- 青春讚
- 春宵吟
- 単思調
- 間花嘆
- 文明女
- 情炎的愛
- 梅前小曲
- 砕心花
- 1935年
- 風中煙
- 春宵吟
- 不滅的情
- 一個紅蛋
- 梅前小曲
- 對花(日本語タイトル:真昼の丘)
- 那著按呢
- 和尚行進曲
- 月下思恋
- 你害我
- 我愛你
- 月下思君
- 春江曲
- 三姉妹
- 情春小曲
- 稻江夜曲
- 碟花夢
- 青春花鼓
- 臨海曲
- 1936年
- 異郷之月
- 簷前雨
- 閨女嘆(怨)
- 夜夜愁
- 姉妹心
- 孤鳥嘆
- 女給哀歌
- 白夜賞月
- 嘆環境
- 雨夜孤怨
- 1937年
- 南風謠
- 新娘的感情
- 愁人
- 1938年
- 広東夜曲
- 四季紅
- 寄給一哥哥的封信
- 1939年
- 黄昏愁(日本語タイトル:番社の娘)
- 純情夜曲
- 満面春風(日本語タイトル:南海夜曲)
- 小雨夜恋
- 密林的黄昏
- 菅芒花
- 安平小調
- 郷土部隊的来信(日本語タイトル:郷土部隊の勇士から)
- 1940年
- 南国花譜
- 来自南方之島(日本語タイトル:南の島から)
- 望郷之歌(日本語タイトル:望郷の月)
- 1941年
- 不願煞
- 離別故郷