鄧祖禹
鄧祖禹 | |
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プロフィール | |
出生: | 1891年(清光緒17年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清江西省臨江府清江県[1] |
職業: | 政治家・軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 鄧祖禹 |
簡体字: | 邓祖禹 |
拼音: | Dèng Zŭyŭ |
ラテン字: | Teng Tzu-yü |
和名表記: | とう そう |
発音転記: | トン ツーユー |
鄧 祖禹(とう そう、1891年 - 没年不詳)は中華民国の政治家・軍人。孫文(孫中山)派の南方政府、国民政府に属する。後に中華民国維新政府や汪兆銘の汪兆銘政権(南京国民政府)に参加した。字は鑄久、滌清。
事跡
[編集]雲南陸軍講武堂を卒業。1913年(民国2年)、江西都督李烈鈞の副官となった。1915年(民国4年)の護国戦争(第三革命)でも李に随従して雲南省に赴いている。
1920年(民国9年)、鄧祖禹は広東駐留の雲南軍司令朱培徳の配下となる。1924年(民国13年)、広東衛戍司令の地位にあった蔣介石の副官に異動した。北伐に際しては、程潜配下の兵站監に任ぜられる。1927年(民国16年)、東路総指揮何応欽の下で政治部主任となった。後に胡漢民に属し、冀察政務委員会参議にもなる。
中華民国維新政府が成立すると、鄧祖禹はこれに参加する。内政部総務司長兼警政司長となり、さらに警察学校教育長もつとめた。1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権(南京国民政府)の成立とともに、警政部常務次長に任命された。翌年8月、中央警官学校校長に異動し、1942年(民国31年)6月、首都警察総監となった。
1943年(民国32年)5月、九江に江西省政府が設立されると、鄧祖禹が初代江西省省長に任命された。翌月、同省保安司令を兼ねている。12月、新国民運動促進委員会江西分会主任委員に異動した。1944年(民国33年)1月、軍事委員会委員に任じられている。
日本敗北後、鄧祖禹は蔣介石の国民政府に逮捕される。1946年(民国35年)10月8日、懲役15年を宣告され、上訴後の1948年(民国37年)2月28日に懲役14年へ減刑された。その後の消息は不明である。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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