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ティム・アイルランド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ティム・アイルランド
Tim Ireland
AAA級オマハ時代
(1980年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州オークランド
生年月日 (1953-03-14) 1953年3月14日(71歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1973年 MLBドラフト25巡目
初出場 MLB / 1981年9月20日
NPB / 1983年4月9日
最終出場 MLB / 1982年5月25日
NPB / 1984年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

ティモシー・ニール・クリストファー・アイルランドTimothy Neal Christpher Ireland1953年3月14日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物

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シャボー大学を経て、1973年のMLBドラフト25巡目でモントリオール・エクスポズに指名され契約。1981年カンザスシティ・ロイヤルズメジャーデビュー[1]

1983年日本プロ野球(NPB)の広島東洋カープに入団[1]。広島ではレギュラー二塁手としてガッツあふれるプレーをみせていたが、1984年10月7日の対読売ジャイアンツ戦にて、ホームクロスプレーで捕手村田真一と激突し骨折。10月13日から行われた日本シリーズには出場できなかった。同年11月22日にデーブ・レーシッチと共に自由契約となる。

1997年福岡ダイエーホークスの臨時コーチ、1998年台湾大連盟(TML)の声宝太陽で監督を務めた。その後、コロラド・ロッキーズのスカウトマンを務め[1]2001年にはアメリカ独立リーグのソノマ・カウンティ・クラッシャーズで監督を務めた。当時、同球団にはケビン・ミッチェル古賀英彦がコーチとして在籍しており、佐々木誠も選手として在籍するなど、日本色の強いチームとなっていた。

広島に所属していた2年間に隠し球を数回成功させている。中には、自らのエラーで併殺が完成しなかったのを事実上帳消しにした見事な隠し球もあった。高木豊の話では脇の間にボールを挟み、両手を差し出して“ボールないよ”とおどけていた事があるという(プロ野球ニュース、2007年8月22日)。声宝太陽監督の時も、隠し球を数回成功させている。ピンチのとき、外野手ひとりを内野へ呼び、「内野5人シフト」という特殊な守備配置も数回使用した。 一方、打撃時には、捕手前のフェアゾーンで大きくバウンドした打球をファウルボールと勘違いし、これを捕球した捕手にバッターボックスの中でタッチアウトにされるミスをしたこともある。

広島時代の応援歌の原曲は石川優子チャゲふたりの愛ランド」。同曲はその後、ランディ・ジョンソンウェイド・ロードンと広島の外国人打者に引き継がれている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1981 KC 4 0 0 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1982 7 8 7 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 .143 .250 .143 .393
1983 広島 96 350 321 39 94 17 0 12 147 44 8 2 3 2 21 1 3 27 4 .293 .340 .458 .798
1984 108 292 264 31 67 11 0 6 96 23 4 7 6 0 19 1 3 20 3 .254 .311 .364 .675
MLB:2年 11 8 7 3 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 1 0 0 1 0 .143 .250 .143 .393
NPB:2年 204 642 585 70 161 28 0 18 243 67 12 9 9 2 40 2 6 47 7 .275 .327 .415 .742

個人記録

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背番号

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  • 17 (1981年)
  • 15 (1982年、1998年)
  • 4 (1983年 - 1984年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、3ページ

関連項目

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外部リンク

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