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蛸足大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
タコ足大学から転送)

蛸足大学(たこあしだいがく)とは、キャンパスが複数の箇所に分散していることによる弊害が大きいとされる大学を指す言葉。

歴史

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国公立大学

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第二次世界大戦が終結、日本国内の学制改革が実施される際、従来複線方式となっていた学校体系を単線方式に改めることとなった[1]。既に各都道府県には専門性の高い単科大学や旧制高等学校師範学校旧制専門学校などが整備されていたが、戦後、CIEが各都道府県ごとにこれらの教育機関を統合して新制大学とすることを要請し、文科省によりそのような処置が執られた[2]一方、既に複数の学部が設置されていた大学においても新制教育制度のもとで教養課程を担当していた旧制高等学校や予科を取り込む必要が出てきた。[要出典]そこで旧来の帝国大学を中心にした旧制高等学校の取り込みも行われた。こうした教育機関は、それぞれ別の敷地に設置されていた上に、統合後も旧組織がそのまま独立した学部として運営されることが多かったため、それぞれのキャンパスが地理的に分割された状態で存在することになった。

私立大学

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規模の大きい私立大学では本部キャンパスから遠く離れた全国各地にキャンパスを置いている例(日本大学など)があるが、こうした大学は通常蛸足大学とは呼ばれない。

蛸足大学の具体的問題

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「たこ足大学」と呼ばれる大学には、キャンパス間が200km離れている信州大学のようなケースもあり[3]、大学の発展に問題があるとされる[4]。全国的に「たこ足」は存在するが、多くの施設でも分散施設の統一化が検討されている[4]。物理的にキャンパスが離れていることは、人の移動や情報交換が困難とする[3]。また、キャンパス間で内線電話が使用できないなど、経費がかかるというデメリットもある[3]。学生が在学中に進級することにより、遠く離れた別の地域にあるキャンパスに通学することになることがあり、場合によっては学生の引っ越しが必要となり経済的負担が生じることも問題[5]

統合への問題

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広大な敷地や、転入する職員や学生の居住場所や用水などのリソースが問題となる[6]。またキャンパスが転出して失われてしまう自治体では転出反対の動きもあり[7]、大学の一方的な決断だけではなく住民の理解を求める文部大臣の指摘が過去に提示されている[7]。歴史ある建物が失われることを惜しむ声もある[8]

事例と解決への試み

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「タコ足大学」として報道された事例と、その解決への試みを紹介する。

  • 山形大学は全国の「タコ足大学」の事例と比較しても、鶴岡市農学部山形市の本部が距離的に離れ過ぎていることが指摘されていた[7]。しかし鶴岡市と米沢市から学部存続の声が出され[7]、当時の小杉隆文相は、全国の事例を見ても、全部のキャンパスを一緒にするのは大変なことであり、住民を理解を得ることが大切であるとコメントしている[7]
  • 新潟大学も、県内各地に点在していた旧制高校や師範学校の校舎を引き継ぎついで新制大学として誕生し[9]新潟市西大畑(現・中央区西大畑町)に置かれたが各学部は県内に点在しタコ足大学と呼ばれた[9]。1960年代に入ると、キャンパス整備を求める声が挙がった[9]。当時は古い建物だけ刷新できれば良いという意見が多数派で、移転して統合しようという「キャンパス移転統合」派は少数派だった[9]。しかしその後「キャンパス移転統合」派が増え[9]、1965年の学園祭には「大学躍進の道はどこに--統合移転のビジョンを求めて--」というテーマが選ばれた。しかし移転統合によって大学施設を失う地方自治体から反対の声も挙がり[9]、学生の中にも移転反対の動きが広まった。学生が研究室を占拠するなどの反対運動もあった[9]。反対運動が続く中、1970年の教養部移転を皮切りに12年間をかけて新潟市の五十嵐地区(現・西区五十嵐)への移転を進め[9]、1982年に教育学部の移転で統合が終了した[9]。ただし、旧制医科大学(新潟医科大学)である医学部は、五十嵐地区には移転せず、西大畑町に隣接する中央区旭町に所在している。
  • 信州大学では昭和30年代に「たこ足大学」の弊害を回避する試みが始まった[10]松本市に教養部を設け各学年の一年生を集めて教育を行うシステムが構築された[10]。各学部にはデジタルマイクロ波送受信機、無線電波用講義室、会議室が設けられ[3]、当時双方向に映像を流して工事や会議が出来るネットワークが昭和62年から整備された[11][3]。しかし松本に教養部が設けられたのちも、他キャンパスから松本に通うことを“通松”と言ったりするなど、依然として「たこ足大学」の弊害が継続し[12]、職員と学生は甚だ不便な思いをしている[13]。1997年当時でもキャンパスは県内5か所に分散し[14]、信州大学広報委員会の広報誌でも「ほかの学部で何をやっているか知らない学生も多い」という声がある[14]
  • 岐阜大学はキャンパスが3か所に分散する「たこ足大学」であった。1956-1958年にかけて教育学部、工学部、農学部と本部機能を柳戸に統合した。医学部は前身となった岐阜医科大学のあった岐阜市司町に留まるが、それでも柳戸への統合が検討されている[15]
  • 静岡大学は五つの基盤校が合併して設立された。創立当初は静岡市内3カ所、浜松2カ所、島田、磐田、三島にキャンパスがあり、文字通り8カ所の「タコ足大学」であった。そのため一体化教育は困難であった。特に教育学部は静岡、浜松、島田、三島に分散しており、同じキャンパスには教養教育の同級生が5人しかいないという事もあった[16]
  • 神戸大学でも1960年代に学舎の点在によって「たこ足大学」として認識されていた[17]
  • 広島大学も、戦後の再編当時より「たこ足大学」と呼ばれた。東広島での統合(医学部・歯学部・二部を除く)が完了するまでは、理念の共有化に障害が続いたとされる[18]。原爆の被害や疎開もあり、戦後広島大学の施設は、広島、福山など県内6市町村11カ所に分散していた[6]。1973年2月に移転用地が賀茂郡西条町(現東広島市)に決定した。教職員、家族、学生合わせて2万人近くの移転が必要となり、東広島は用地や用水の確保に追われた[6]
  • 九州大学も「たこ足大学」とされていたが、1991年10月に福岡市西区元岡(伊都地区)への移転案がまとまった[5]。移転案策定当時は、キャンパスが福岡市東区箱崎、同区馬出、中央区六本松、春日市(筑紫地区)の4カ所に分散していた[5]。ただし新キャンパスの用地選定は一部の関係者しか知らされず、教員の中には突然の移転先決定に戸惑いやオープンな議論を求める声があった[8]。また旧キャンパスの歴史ある建物を惜しむ学生の声もあった[8]。2018年度に箱崎・六本松の伊都への移転統合が完了するものの、馬出・筑紫と旧九州芸術工科大学から引き継いだ大橋地区は移転しないのでたこ足状態が解消するとはいえないばかりか、むしろ伊都地区と他キャンパス間の交通が従来のキャンパス間と比べて不便であることから一層たこ足状態が悪化すると見ることもできる。
  • 長崎大学も1949年の発足当時は「たこ足大学」の状態であったとされる[19]。長崎大学は、国立学校設置法の公布によって長崎医科大学や経済専門学校など旧制学校が統合されて設立されたが[19]、医学部と経済学部は長崎市、水産学部は佐世保市、薬学部は諫早市、学芸学部は大村市に分散しており[19]、大学運営上甚だ不便であった[19]
  • オンタリオ州トロント郊外のバリー市に本部があるジョージアン技術大学も3つのキャンパスをもつ「たこ足大学」として紹介されている[20]。5000人の学生が6つの学部に所属している[20]
  • 高知女子大学も2つのキャンパスを持つ「たこ足大学」として紹介されている[21]

出典

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  1. ^ 佐藤学 『教育改革をデザインする』 岩波書店〈教育の挑戦〉(原著2000年10月25日)、第5版。ISBN 4000264419
  2. ^ 文部科学省『学制百年史』- 三 新制大学の発足
  3. ^ a b c d e 近く農学部でも着工 信大5キャンパスを結ぶ 画像情報ネット 1991年10月27日 中日新聞社 朝刊 18頁 長野版 (全468字)
  4. ^ a b 知事選インタビュー 4候補こう訴える:下 /秋田 1997年04月12日 朝日新聞 東京地方版/秋田 0頁 秋田 写図有 (全3,280字)
  5. ^ a b c 大学が動く・九州大学移転の舞台裏<上>環境の悩み-連載 1991年10月24日 西日本新聞社 朝刊 26頁 19版26面1段 (全1,488字)
  6. ^ a b c 広島大50年 廃墟から出発 中四国の学術拠点 ハード充実 大学改革へ前進 独法化の波…生き残りめざす(広島県) 1999年11月02日 中国新聞 中国朝刊 総合/総合東 写有 (全2,266字)
  7. ^ a b c d e 山形大学移転統合で意見交換/小杉文相と坪井学長 農学部を先行的に 学長/なくなる地元大変 文相 1997年08月28日 河北新報記事情報 写有 (全895字)
  8. ^ a b c 学内に期待…戸惑い--九州大学の福岡市元岡・移転問題 1991年09月28日 西日本新聞 夕刊 12頁 10版12面1段 (全682字)
  9. ^ a b c d e f g h i [キャンパス・メール]その時、新潟大学は 五十嵐キャンパス移転 /新潟 2000年11月18日 新潟新聞 地方版/新潟 写図有 (全1,442字)
  10. ^ a b 追想=松崎一さん「教」よりも「育」を重んじる 2011年02月27日 信濃毎日新聞朝刊 23頁 ラジオ1 (全809字)
  11. ^ 99年春の叙勲 県関係受章者の抱負と横顔 北条舒正さん 1999年04月29日 信濃毎日新聞朝刊 33頁 社会3 (全444字)
  12. ^ 知ってる!?信大キャンパス言葉 無謀だよ…“男前” 君って“通松”かい フォーラムで学生発表 2003年02月11日 朝刊 27頁 中日新聞 長野総合版 (全611字)
  13. ^ [ひと図鑑]学長室から(4)異能の学生、異才の講師(連載)1993年09月21日 読売新聞 東京夕刊 1頁 写有 (全1,213字)
  14. ^ a b 広報誌「信大NOW」軌道に 学生の評価まちまち 信州大学 /長野 1997年05月21日 朝日新聞 東京地方版/長野 0頁 長野 写図有 (全997字)
  15. ^ 移転希望の岐大医学部 都市型めざし高層化 敷地、現在の4倍必要 1992.03.06 中日新聞 朝刊 16頁 岐阜版 (全675字)
  16. ^ 静岡大学開学50年・坂の上の学び舎(3)=第1部・歩み(3)教養教育 1999年01月21日 静岡新聞 朝刊 23頁 (全1,581字)
  17. ^ 神戸大学応援団総部 創立50周年記念式典 卒業生も集い、学歌を大合唱 2010年05月04日 神戸新聞社 朝刊 22頁 広域B (全600字)
  18. ^ [特集]モノ作り王国の復権 広島--大学特集・広島編--国公私立20大学乱立 広島サバイバル戦争 2003年07月05日 週刊東洋経済 第5834号 131-133頁 3頁 写図表有 (全3,507字)
  19. ^ a b c d ◎水や空/教育学部130周年 2005年11月11日 長崎新聞社本紙-1版 1頁 総合1 (全587字)
  20. ^ a b 海外と学術交流第二弾 鈴鹿高専 今度はカナダの大学 10月に協定調印 研究資料や学生交換も 1991年07月18日 中日新聞 朝刊 19頁 三重総合版 (全612字)
  21. ^ 『声ひろば』 県都の文化施設 総合的な視野で 内川清輔=79歳、高知市十津 2008年08月08日 高知新聞社 朝刊 20頁 投書 (全556字)

関連項目

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