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ソンジン・ワンチュク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ソンジンワンチュクから転送)
ソンジン・ワンチュク
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1885年
死去: 1948年民国37年)2月19日
内モンゴル自治政府ウランホト市
出身地: 清の旗 内モンゴルシリンゴル盟(錫林郭勒盟)ホチト(浩斉特)左翼旗
職業: 政治家
各種表記
繁体字 松津旺楚克
簡体字 松津旺楚克
拼音 Sōngjīn Wàngchŭkè
ラテン字 Sung-chin Wang-ch'u-ko
和名表記: ソンジン・ワンチュク
発音転記: ソンジン ワンチューコー
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ソンジン・ワンチュクは、モンゴル(内蒙古)の王族・政治家。中華民国蒙古聯合自治政府内モンゴル自治政府等で活動した。松王とも呼ばれる。

事跡

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1916年民国5年)、ホチト左旗の扎薩克(執政官の意)となる。また、同旗の多羅郡王に封じられた。1936年(民国25年)、察哈爾省政府委員に任ぜられた。

1937年(民国26年)10月、蒙古聯盟自治政府の成立とともに、ソンジン・ワンチュクはこれに参加して参議会参議に任命された。翌年3月、シリンゴル盟副盟長となる。1939年(民国28年)9月、蒙古聯合自治政府の成立とともに、民政部部長に就任した。1941年(民国30年)6月、民政部が廃止されたため、新設された興蒙委員会の委員長に転じた。

蒙古自治邦(蒙古聯合自治政府を改組したもの)が崩壊した後の1946年(民国35年)、ウランフ(烏蘭夫)率いる内モンゴル自治区運動聯合会により、ソンジン・ワンチュクはシリンゴル盟盟長に任命された[1]。翌1947年(民国36年)5月、内モンゴル自治政府が成立すると共にソンジン・ワンチュクは同政府参事庁庁長に任命されている[2]

1948年(民国37年)2月19日、ウランホト市にて在職のまま病没。享年64[3]

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  1. ^ 潮洛濛「憶烏蘭夫二事」開国元勲網、2011年8月10日
  2. ^ 「民国36年 (公元1947年)」内蒙古区情網(内モンゴル自治区地方志編纂委員会弁公室ホームページ)、2011年4月14日
  3. ^ 「民国37年 (公元1948年)」内蒙古区情網同上

参考文献

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  • 潮洛濛「憶烏蘭夫二事」開国元勲網、2011年8月10日
  • 「民国36年 (公元1947年)」内蒙古区情網(内モンゴル自治区地方志編纂委員会弁公室ホームページ)、2011年4月14日
  • 「民国37年 (公元1948年)」内蒙古区情網同上
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。ISBN 7-101-01320-1 
  蒙古聯合自治政府(蒙疆聯合自治政府、蒙古自治邦) 
先代
(創設)
民政部長
1939年9月 - 1941年6月
次代
(廃止)
先代
(創設)
興蒙委員会委員長
1941年6月 - 1945年8月
次代
(廃止)