スティエパン・メシッチ
スティエパン・メシッチ Stjepan Mesić | |
任期 | 2000年2月18日 – 2010年2月18日 |
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任期 | 1992年9月7日 – 1994年5月24日 |
任期 | 1991年6月30日 – 1991年12月5日 |
任期 | 1990年5月30日 – 1990年8月24日 |
大統領 | フラニョ・トゥジマン |
任期 | 1991年6月30日 – 1991年12月6日 |
出生 | 1934年12月24日(89歳) ユーゴスラビア王国 オラホビカ |
政党 | (クロアチア共産党→) (クロアチア民主同盟→) (クロアチア国民党→) 無所属 |
出身校 | ザグレブ大学 |
スティエパン・メシッチ(クロアチア語:Stjepan Mesić、1934年12月24日 - )は、クロアチアの政治家。2000年より同国大統領を2期10年務めた。自由主義・親西側派の民族主義者であり、クロアチアのNATO加盟を支持した(任期中の2009年に加盟)。
経歴
[編集]1970年代初め、ユーゴスラビアにおけるクロアチアの権利平等を求める反政府運動(いわゆる「クロアチアの春」)に参加。禁固2年の判決を受け、1年間服役した。釈放後、法学者として働き、科学活動に従事した。
1989年、クロアチア民族運動「クロアチア民主協力(HDZ)」(後に政党化)の創設に参加し、書記、後に党執行委員会議長となった。
1990年、メシッチは共和国政府を率い、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領評議会の議員となった。
憲法上の議長交代制度に従って1991年5月15日にユーゴスラビア大統領評議会議長となった。最後の国の指導者となる希望を再三表明し、ユーゴスラビアの分割に参加。
1992年、独立したクロアチア共和国の議会議長。1994年、HDZの政策、特にボスニア問題への不同意により解任。
1997年5月、ハーグ裁判所に自発的に出廷し、ボスニア・ヘルツェゴビナ内でのクロアチア人部隊の活動について証言した。HDZを脱党し、クロアチア独立民主(HND)党を設立。同年、HND解散後にクロアチア国民党(HNS)党員となり、HNSのザグレブ市支部を率いた。
2000年2月7日、クロアチア共和国大統領に選出。
2005年1月17日、投票数の66%を得票し、大統領に再選。2005年の大統領選での公約は、クロアチアのEU加盟と欧州民主国家の地位獲得だった。任期中にEU加盟は果たせなかったが、2013年に加盟が実現した。
人物
[編集]クロアチア、ヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡オラホヴィツァ村出身。1961年、ザグレブ大学法学部卒業。
公職 | ||
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先代 Sejdo Bajramović (代理) |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領評議会議長 第14代:1991年 |
次代 ブランコ・コスティッチ (代理) |
先代 ズラトコ・トムチッチ (代理) |
クロアチア共和国大統領 第2代:2000年 - 2010年 |
次代 イヴォ・ヨシポヴィッチ |