ジョージ・グレイ (第2代准男爵)
第2代准男爵 サー・ジョージ・グレイ Sir George Grey 2nd Baronet | |
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生年月日 | 1799年5月11日 |
出生地 | イギリス・ジブラルタル |
没年月日 | 1882年9月9日(83歳没) |
死没地 | イギリス・イングランド・ノーサンバーランド・ファラドン |
出身校 | オックスフォード大学オリオル・カレッジ |
所属政党 | ホイッグ党(自由党) |
称号 | 第2代准男爵、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | アン・ソフィア |
親族 |
第2代グレイ伯爵(伯父) ファラドンの初代グレイ子爵(孫) |
内閣 |
第一次ジョン・ラッセル卿内閣 第一次パーマストン子爵内閣 第二次パーマストン子爵内閣、第二次ラッセル伯爵内閣 |
在任期間 |
1846年7月8日 - 1852年2月23日 1855年2月8日 - 1858年2月20日[1] 1861年7月25日 - 1866年6月[1] |
内閣 | アバディーン伯爵内閣 |
在任期間 | 1854年6月10日 - 1855年1月[2] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
デヴォンポート選挙区 北ノーザンバーランド選挙区 モーペス選挙区[3] |
在任期間 |
1832年12月10日 - 1847年7月29日 1847年7月29日 - 1852年7月7日 1853年1月1日 - 1874年1月31日[3] |
第2代准男爵サー・ジョージ・グレイ(英語: Sir George Grey, 2nd Baronet, GCB, PC、1799年5月11日 - 1882年9月9日)は、イギリスの政治家。
ヴィクトリア朝のホイッグ党(自由党)政権下で閣僚職を歴任した。
経歴
[編集]1799年5月11日、初代准男爵サー・ジョージ・グレイとその妻メアリー(旧姓ホイットブレッド)の長男としてイベリア半島の英領ジブラルタルに生まれる[4][5]。父ジョージは初代グレイ伯爵チャールズ・グレイの三男であり、首相を務めた第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイの弟にあたる[6]。
オックスフォード大学オリオル・カレッジを卒業[7][5]。1826年にリンカーン法曹院で学び[5]、法廷弁護士となる[7]。
1828年10月3日に父の死により第2代准男爵位を継承した[5]。1832年12月、デヴォンポート選挙区から選出されてホイッグ党(後の自由党)の庶民院議員を務めた[5]。
1834年7月から11月にかけて第一次メルバーン子爵内閣で陸軍・植民地副大臣を務めた。1835年4月に第二次メルバーン子爵内閣が成立すると再び陸軍・植民地副大臣となったが、1839年2月には法務総監に転じ、さらに1841年6月からはランカスター公領大臣を務めた[5]。
1846年7月に成立した第一次ジョン・ラッセル卿内閣には内務大臣として入閣。1847年にはアイルランド犯罪及び暴力法、1848年には国事犯罪法を制定し、アイルランドの反政府運動取り締まりを強化した[5]。また1848年にチャーティズム運動が高まると、軍隊を派遣したり、集会を禁止するなどしてその取り締まりにあたった[5]。
1847年8月からは北ノーザンバーランド選挙区から選出されていたが、1852年7月の総選挙で落選。1853年1月にはモーペス選挙区から再び議席を得た[5]。
1854年6月にはアバディーン伯爵内閣に植民地大臣として入閣[5]。1855年2月に第一次パーマストン子爵内閣が成立すると内務大臣に転任する[5]。
1859年に第二次パーマストン子爵内閣が成立するとまずランカスター公領担当大臣として入閣し、ついで1861年から再び内務大臣を務め、1866年まで務めた[7]。
1868年に成立した第一次グラッドストン内閣への入閣は拒否し、1874年の総選挙の際に庶民院議員を引退した[5]。
1882年9月9日にノーサンバーランドのファラドンの自宅で死去[5]。
栄典
[編集]準男爵位
[編集]1828年10月3日の祖父ジョージ・グレイの死去に以下の準男爵位を継承した[7]。
勲章
[編集]家族
[編集]1827年にアン・ソフィア・ライダーと結婚し、彼女との間に一人息子ジョージ・ヘンリー・グレイを儲けた。しかしジョージ・ヘンリーには先立たれ、その息子であるエドワードが准男爵位を継承した。エドワードは長期間にわたって外相を務め、ファラドンの初代グレイ子爵に叙される[8][9]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 秦(2001) p.509
- ^ 秦(2001) p.510
- ^ a b UK Parliament. “Sir George Grey” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年7月7日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Captain Hon. Sir George Grey, 1st Bt” (英語). thepeerage.com. 2014年6月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m Smith, David Frederick. “Grey, Sir George, second baronet” (英語). Oxford Dictionary of National Biography. 2014年6月28日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “General Charles Grey, 1st Earl Grey” (英語). thepeerage.com. 2014年7月7日閲覧。
- ^ a b c d e f Lundy, Darryl. “Sir George Grey, 2nd Bt.” (英語). thepeerage.com. 2014年6月19日閲覧。
- ^ Lundy, Darryl. “Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon” (英語). thepeerage.com. 2019年3月24日閲覧。
- ^ Heraldic Media Limited. “Grey of Fallodon, Viscount (UK, 1916 - 1933)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2019年3月24日閲覧。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Sir George Grey
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 選挙区新設 |
デヴォンポート選挙区選出庶民院議員 1832年 - 1847年 同一選挙区同時当選者 エドワード・コドリントン(1839年まで) ヘンリー・タフネル(1839年から) |
次代 ジョン・ロミリー ヘンリー・タフネル |
先代 アディソン・クレスウェル オサルストン卿 |
北ノーザンバーランド選挙区選出庶民院議員 1847年 – 1852年 同一選挙区同時当選者 オサルストン卿 |
次代 ロヴェイン卿 オサルストン卿 |
先代 エドワード・ハワード |
モーペス選挙区選出庶民院議員 1853年 - 1874年 |
次代 トマス・バート |
公職 | ||
先代 ジョン・ショー・レフィーヴァー |
陸軍・植民地副大臣 1834年 |
次代 ジョン・ステュアート=ウォートレイ閣下 |
先代 ウィリアム・グラッドストン |
陸軍・植民地副大臣 1835年 – 1839年 |
次代 ヘンリー・ラボシェール |
先代 第4クラレンドン伯爵 |
ランカスター公領大臣 1841年 |
次代 グランヴィル・サマセット |
先代 サー・ジェームズ・グラハム准男爵 |
内務大臣 1846年 – 1852年 |
次代 スペンサー・ホレーショ・ウォルポール |
先代 ウェルボーン・エリス (最後の在任者) |
植民地大臣 1854年 – 1855年 |
次代 シドニー・ハーバート |
先代 第3代パーマストン子爵 |
内務大臣 1855年 – 1858年 |
次代 スペンサー・ホレーショ・ウォルポール |
先代 第4代モントローズ公爵 |
ランカスター公領大臣 1859年 – 1861年 |
次代 エドワード・カードウェル |
先代 サー・ジョージ・コーンウォール准男爵 |
内務大臣 1861年 – 1866年 |
次代 スペンサー・ホレーショ・ウォルポール |
司法職 | ||
先代 ウィリアム・セント・ジュリアン・アラビン |
法務総監 1839年 - 1841年 |
次代 リチャード・レイラー・シール |
イギリスの準男爵 | ||
先代 ジョージ・グレイ |
(ファラドンの)第2代准男爵 1828年 – 1882年 |
次代 エドワード・グレイ |