ジョージ・ハーヴィー (第2代ブリストル伯爵)
第2代ブリストル伯爵ジョージ・ウィリアム・ハーヴィー(英語: George William Hervey, 2nd Earl of Bristol、1721年8月3日 – 1775年3月18日)は、グレートブリテン王国の貴族、政治家。アイルランド総督、王璽尚書を歴任した[1]。
生涯
[編集]第2代ハーヴィー男爵ジョン・ハーヴィーと妻メアリー(1706年9月26日 – 1768年9月2日、旧姓レペル、ニコラス・レペルの娘)の長男として、1721年8月3日に生まれた[2]。1739年から1742年まで従軍した後、1743年8月5日に父が死去すると、ハーヴィー男爵位を継承、同年12月1日に貴族院議員に就任した[2]。1751年1月20日に祖父ジョンが死去すると、ブリストル伯爵位を継承した[2]。
1755年にイギリスの特命公使としてトリノに派遣された[1]。1758年から1761年までマドリード駐在イギリス大使であり、難しい状況にありながらよく務めた[1]。七年戦争でスペインがイギリスに宣戦布告すると退任した[2]。政治では大ピットを支持した[1]。
1766年9月26日に枢密顧問官に任命された[2]。同年にアイルランド総督に短期間就任したが、その間にアイルランドを訪れることはなかった[1]。ただし、16,000ポンドの年俸と3,000ポンドの総督手当てはそのまま受け取った[2]。1768年11月から1770年2月まで王璽尚書を務めた後、1770年にジョージ3世の宮内官になり、1775年まで務めた[2]。
1775年3月18日に障害未婚のままバースで病死、26日にイックワースで埋葬された[2]。弟オーガスタス・ジョンが爵位を継承した[1]。『ザ・ジェントルマンズ・マガジン』によれば、死去時点で弟に年収2万ポンド相当の地所を残したという[2]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 575.
- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 324–325.
外部リンク
[編集]- ジョージ・ハーヴィー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- ジョージ・ハーヴィーの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- "ジョージ・ハーヴィーの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
外交職 | ||
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先代 ロッチフォード伯爵 |
トリノ駐在イギリス特命公使 1755年 – 1758年 |
次代 ジェームズ・ステュアート=マッケンジー |
先代 ベンジャミン・キーン |
スペイン駐在イギリス大使 1758年 – 1761年 |
空位 英西戦争により派遣せず 次代の在位者 ロッチフォード伯爵
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宮廷職 | ||
先代 ハンティンドン伯爵 |
宮内官 1770年 – 1775年 |
次代 ウェイマス子爵 |
公職 | ||
先代 ハートフォード伯爵 |
アイルランド総督 1766年 |
次代 タウンゼンド子爵 |
先代 チャタム伯爵 |
王璽尚書 1768年 – 1770年 |
次代 ハリファックス伯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ジョン・ハーヴィー |
ブリストル伯爵 1751年 – 1775年 |
次代 オーガスタス・ジョン・ハーヴィー |
先代 ジョン・ハーヴィー |
ハーヴィー男爵 1743年 – 1775年 |