ジョン・スマイバート
ジョン・スマイバート John Smibert | |
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自画像[1] | |
生誕 |
1688年3月24日 スコットランド、エディンバラ |
死没 |
1751年4月2日 マサチューセッツ湾植民地、ボストン |
ジョン・スマイバートもしくはジョン・スミバート(John Smibert、姓は Smybertとも、1688年3月24日 - 1751年4月2日)はスコットランド生まれのアメリカの画家である。
略歴
[編集]エジンバラで生まれた。塗装業、左官の徒弟をした後、1709年にロンドンに出て[2]、馬車の装飾画家や看板描きなどの仕事をした。1713年から1716年の間、宮廷画家のゴドフリー・ネラーが開いていた絵画学校で学んだ[2]。エディンバラに戻り肖像画家として働き始めた。1719年1722年の間、イタリアで修業した後、1722年から1728年までロンドンに住み肖像画家として活動した[2]。
肖像画の顧客の一人にアイルランド出身の哲学者、聖職者のジョージ・バークリーがいて[3]、バークリーはバミューダに神学校を創立する計画をたて、スマイバートを美術の教授として誘い、1728年にバークリーとスマイバートはアメリカに移った。
資金が集まらず神学校は実現せず、バークリーは1732年にアメリカを離れるが、スマイバートはボストンで暮らし始め[4][5]、1730年に結婚した。1734年にはボストンに画材や版画を売る店を開き、2階には、ヨーロッパで模写した絵画や塑像を展示した。美術史家のRichard H. Saundersはこの店を「アメリカ最初の美術館」と表現しているが、チャールズ・ウィルソン・ピールやギルバート・ステュアート、ジョン・トランブルといった初期のアメリカの画家たちに影響を与えた。[6]
1740年から建設されたボストンの公設市場、ファニエル・ホールに建築家として関わり、イギリスのスタイルでデザインした。スマイバートの設計した建物は1761年に火災で失われるが、再建され、1806年に一部の設計を残して大規模な増築が行われた。
ボストンで死去した。
息子のナサニエル・スマイバート(Nathaniel Smibert:1734–1756)も肖像画家になったが、22歳で亡くなった。
作品
[編集]-
サミュエル・セウォール-判事
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John Rushout-政治家
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Portrait of Mary Pemberton
参考文献
[編集]- ^ スマイバートの作品 "Dean Berkely and His Entourage)"の一部
- ^ a b c Richard H. Saunders, John Smibert: Colonial America's first portrait painter, Yale University Press, 1995.
- ^ Cust, Lionel Henry (1897). Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 52. London: Smith, Elder & Co. . In
- ^ Weekly Rehearsal, Oct. 21, 1734; May 26, 1735
- ^ David Kruh. Always something doing: Boston's infamous Scollay Square, rev. ed. Boston: Northeastern Univ. Press, 1999; p.34.
- ^ John Smibert,Oxford Art Online
関連図書
[編集]- A.T. Perkins. Notes on portraits by Blackburn and Smibert. Proceedings of the Massachusetts Historical Society, Vol. 17, May 1879.
- Richard H. Saunders, John Smibert: colonial America's first portrait painter. Yale University Press, 1995.