ハイメ2世 (アラゴン王)
ハイメ2世 / ジャウマ2世 Jaime II / Jaume II | |
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アラゴン国王 | |
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在位 |
アラゴン王:1291年 - 1327年 シチリア王:1285年 - 1296年 |
別号 | シチリア国王 |
出生 |
1267年8月10日 カタルーニャ君主国、バレンシア |
死去 |
1327年11月2日(60歳没) カタルーニャ君主国、バルセロナ |
埋葬 | カタルーニャ君主国、アイグアムルシア、サンタス・クレウス修道院 |
配偶者 | イサベル・デ・カスティーリャ |
ブランカ・デ・ナポレス | |
マリー・ド・リュジニャン | |
アリゼンダ・デ・ムンカーダ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | バルセロナ家 |
王朝 | バルセロナ(アラゴン)朝 |
父親 | ペドロ3世 |
母親 | コンスタンサ・デ・シシリア |
ハイメ2世(スペイン語: Jaime II, 1267年8月10日 - 1327年11月2日)は、アラゴン王、バレンシア王、およびバルセロナ伯(在位:1291年 - 1327年)。カタルーニャ語名ではジャウマ2世(カタルーニャ語: Jaume II)。はじめはシチリア王で、シチリア王としてはジャコモ1世(イタリア語: Giacomo I, 在位:1285年 - 1296年)。公正王(西: el Justo, カタルーニャ語: el Just, 伊: il Giusto)と呼ばれる。アラゴン王ペドロ3世(シチリア王としてはピエトロ1世)とその王妃であったシチリア王マンフレーディの王女コンスタンサの次男。
生涯
[編集]1285年に父王が死去した際、兄アルフォンソ3世がアラゴン王位を、ハイメがシチリア王位を継承した。6年後の1291年にアルフォンソ3世が独身のまま死去するとアラゴン王位にもついた。その後、シチリア奪還を目指すナポリ王カルロ2世と争い、1296年に結んだ講和条約でハイメ2世はシチリア王位を放棄した。しかしシチリア人は代わってハイメの弟フェデリーコ2世を王に選んだため、カルロ2世の望みは達成されなかった。
家族
[編集]ハイメ2世は4度結婚している。最初の王妃はカスティーリャ王サンチョ4世の王女イサベルであったが、サンチョ4世の死後にハイメ2世は対カスティーリャ政策を同盟から干渉に変更したため、離婚した。
1295年に結婚した2番目の王妃は、対立していたナポリ王カルロ2世の王女ブランカで、多くの子女をもうけた。
- ハイメ(1296年 - 1334年) - 聖ハイメ騎士団長
- アルフォンソ(1299年 - 1336年) - アラゴン王
- マリア(1299年 - 1316年) - 1310年にカスティーリャ王子ペドロ(サンチョ4世の子)と結婚
- フアン(1304年 - 1334年) - タラゴナ大司教
- ペドロ(1305年 - 1362年) - リバゴルサ伯。ジャンヌ・ド・フォア(フォワ伯ガストン1世の娘)と結婚し、ガンディア公アルフォンソ(1412年没)およびエレオノーラ(キプロス王ピエール1世妃)をもうける。
- イサベル(1305年 - 1330年) - 1315年にローマ王フリードリヒ3世(美王)と結婚
- レモン・ベレンゲール(1308年 - 1366年) - アンプリアス伯
1315年にはキプロス王ユーグ3世の王女マリー(1322年没)と結婚したが、子供は生まれなかった。
1322年にはカタルーニャ貴族アリゼンダ・デ・ムンカーダと結婚したが、子供は生まれなかった。
関連項目
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