コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ハイメ2世 (アラゴン王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハイメ2世 / ジャウマ2世
Jaime II / Jaume II
アラゴン国王
在位 アラゴン王:1291年 - 1327年
シチリア王:1285年 - 1296年
別号 シチリア国王

出生 (1267-08-10) 1267年8月10日
カタルーニャ君主国バレンシア
死去 (1327-11-02) 1327年11月2日(60歳没)
カタルーニャ君主国バルセロナ
埋葬 カタルーニャ君主国アイグアムルシア、サンタス・クレウス修道院
配偶者 イサベル・デ・カスティーリャ
  ブランカ・デ・ナポレス
  マリー・ド・リュジニャン
  アリゼンダ・デ・ムンカーダ
子女 一覧参照
家名 バルセロナ家
王朝 バルセロナ(アラゴン)朝
父親 ペドロ3世
母親 コンスタンサ・デ・シシリア
テンプレートを表示

ハイメ2世スペイン語: Jaime II, 1267年8月10日 - 1327年11月2日)は、アラゴン王、バレンシア王、およびバルセロナ伯(在位:1291年 - 1327年)。カタルーニャ語名ではジャウマ2世カタルーニャ語: Jaume II)。はじめはシチリア王で、シチリア王としてはジャコモ1世イタリア語: Giacomo I, 在位:1285年 - 1296年)。公正王西: el Justo, カタルーニャ語: el Just, : il Giusto)と呼ばれる。アラゴン王ペドロ3世(シチリア王としてはピエトロ1世)とその王妃であったシチリア王マンフレーディの王女コンスタンサの次男。

生涯

[編集]

1285年に父王が死去した際、兄アルフォンソ3世がアラゴン王位を、ハイメがシチリア王位を継承した。6年後の1291年にアルフォンソ3世が独身のまま死去するとアラゴン王位にもついた。その後、シチリア奪還を目指すナポリカルロ2世と争い、1296年に結んだ講和条約でハイメ2世はシチリア王位を放棄した。しかしシチリア人は代わってハイメの弟フェデリーコ2世を王に選んだため、カルロ2世の望みは達成されなかった。

家族

[編集]

ハイメ2世は4度結婚している。最初の王妃はカスティーリャサンチョ4世の王女イサベルであったが、サンチョ4世の死後にハイメ2世は対カスティーリャ政策を同盟から干渉に変更したため、離婚した。

1295年に結婚した2番目の王妃は、対立していたナポリ王カルロ2世の王女ブランカで、多くの子女をもうけた。

  • ハイメ(1296年 - 1334年) - 聖ハイメ騎士団長
  • アルフォンソ(1299年 - 1336年) - アラゴン王
  • マリア(1299年 - 1316年) - 1310年にカスティーリャ王子ペドロ(サンチョ4世の子)と結婚
  • フアン(1304年 - 1334年) - タラゴナ大司教
  • ペドロ(1305年 - 1362年) - リバゴルサ伯。ジャンヌ・ド・フォア(フォワ伯ガストン1世の娘)と結婚し、ガンディア公アルフォンソ(1412年没)およびエレオノーラ(キプロス王ピエール1世妃)をもうける。
  • イサベル(1305年 - 1330年) - 1315年にローマ王フリードリヒ3世(美王)と結婚
  • レモン・ベレンゲール(1308年 - 1366年) - アンプリアス伯

1315年にはキプロスユーグ3世の王女マリー(1322年没)と結婚したが、子供は生まれなかった。

1322年にはカタルーニャ貴族アリゼンダ・デ・ムンカーダと結婚したが、子供は生まれなかった。

関連項目

[編集]
先代
ピエトロ1世(大王)
シチリア王
1285年 - 1296年
次代
フェデリーコ2世
先代
アルフォンソ3世(自由王)
アラゴン王
バルセロナ伯
バレンシア王
1291年 - 1327年
次代
アルフォンソ4世(慈悲王)