ジェーコブ・ビゲロー
ジェーコブ・ビゲロー(Jacob Bigelow、1787年2月7日 - 1879年1月10日)はアメリカ合衆国の医師、植物学者である。「アメリカの薬用植物」("American Medical Botany":1817-1820)などの著者として知られる。日本美術研究家のウィリアム・スタージス・ビゲローは孫。
略歴
[編集]マサチューセッツ州のサドベリーで生まれた。ハーバード大学を1806年に卒業し、ペンシルベニア医学校で学んだ。植物学者のベンジャミン・スミス・バートンにも学んだ。1810年から医師としてボストンで働き、植物学者として知られるようになり、ヨーロッパの植物学者、ジェームズ・エドワード・スミス、シュレーダー(Heinrich Adolf Schrader)、オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドールらと交流した。1812年にアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれた。1820年に「アメリカ薬局方」(American Pharmacopoeia)を編集した5人のうちの一人である。
1817年から出版された「アメリカの薬用植物」("American Medical Botany")はアメリカで最初の多色刷りの植物図鑑でビゲローは独自のアクアチント技法を使用した。その他の植物学の著書に「ボストンの植物」("Florula Bostoniensis")がある。
1815年から1855年までハーバード大学の薬用植物学の教授を務め、1816年から1827年までランフォード教授職についた。講義録に" Elements of Technology" や "Useful Arts considered in Connection With the Applications of Science"などがある。
アメリカ最初の公園墓地(霊園)の設立に関わり、1825年にボストン郊外のマウント・オーバーン墓地を設計し、公園墓地のモデルとなった。
長く、マサチューセッツ医学会の会長を務め、1847年から1863年の間、アメリカ芸術科学アカデミーの会長を務めた。
科学技術発展によるユートピアを描いたエツラー(John Adolphus Etzler)の信奉者であり[1]、当時行われていた、瀉血、下剤や水銀製剤の摂取などの過激な治療を多用する「ヒロイック・メディシン」(英雄的医療)の効果に懐疑的な主張を行った一人である。
「アメリカの薬用植物」の図版
[編集]-
Rhododendron maximum
ツツジ科 -
Euphorbia ipecacuanhae
トウダイグサ科 -
Euphorbia corollata
トウダイグサ科 -
Ilex verticillata
モチノキ属
著作
[編集]- Florula Bostoniensis (1814; erweiterte Auflagen 1824 und 1840)
- American Medical Botany (1817-1820)
- Elements of Technology (1829)
- Nature in Disease (1854)
- Eolopoesis (1855)
- History of Mount Auburn (1860)
- On the Limits of Education (1865)
- A Brief Exposition of Rational Medicine (1867)
- The Paradies of Doctors, a Fable (1867)
- Modern Inquiries (1867)
- Remarks on Classical Studies (1867)