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シニシャ・ミハイロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シニシャ・ミハイロヴィッチ
フィオレンティーナ監督時代のミハイロヴィッチ(2010年)
名前
愛称 ミハ(Миха, Miha)、バルビカ、ボンバルデル、グランシニストラ
ラテン文字 Siniša Mihajlović
キリル文字 Синиша Михајловић
基本情報
国籍 セルビアの旗 セルビア
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1969-02-20) 1969年2月20日
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ヴコヴァル
没年月日 (2022-12-16) 2022年12月16日(53歳没)
イタリアの旗 イタリアローマ
身長 185cm
体重 78kg
選手情報
ポジション MFDF
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1988 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ボロヴォ 41 (5)
1988-1990 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ヴォイヴォディナ 73 (19)
1990-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター・ベオグラード 38 (9)
1992-1994 イタリアの旗 ローマ 54 (1)
1994-1998 イタリアの旗 サンプドリア 110 (12)
1998-2004 イタリアの旗 ラツィオ 126 (20)
2004-2006 イタリアの旗 インテル 25 (5)
代表歴
1991-1992 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 4 (0)
1994-2002 ユーゴスラビアの旗 ユーゴスラビア 58 (10)
2003 セルビア・モンテネグロの旗 セルビア・モンテネグロ 1 (0)
監督歴
2006-2008 イタリアの旗 インテル(アシスタント)
2008-2009 イタリアの旗 ボローニャ
2009-2010 イタリアの旗 カターニア
2010-2011 イタリアの旗 フィオレンティーナ
2012-2013 セルビアの旗 セルビア
2013-2015 イタリアの旗 サンプドリア
2015-2016 イタリアの旗 ミラン
2016-2018 イタリアの旗 トリノ
2018 ポルトガルの旗 スポルティング
2019-2022 イタリアの旗 ボローニャ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

シニシャ・ミハイロヴィッチセルビア語: Синиша Михајловић, ラテン文字転写: Siniša Mihajlović1969年2月20日 - 2022年12月16日)は、セルビアの元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMFDF

経歴

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クラブ

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ヴコヴァルで生まれ、ボロヴォ・ナセリェで育つ。地元クラブのボロヴォでプロキャリアをスタートし、1990-91シーズン途中にヴォイヴォディナからレッドスター・ベオグラードへ当時の国内移籍金最高額で移籍[1]、主力選手として活躍を見せ、UEFAチャンピオンズカップ 1990-91準決勝のバイエルン・ミュンヘン戦セカンドレグでは得意のフリーキックで先制ゴールを挙げ、後半ロスタイムにはクロスでクラウス・アウゲンターラーのオウンゴールを誘発し土壇場で決勝進出を決め[2]決勝オリンピック・マルセイユ戦でもPK戦でキックを成功させ優勝に貢献した。また同年12月に開催されたインターコンチネンタルカップ 1991でもダルコ・パンチェフのゴールをアシストし優勝に貢献した[3]

1992-93シーズンにはセリエAローマへ移籍、3月28日、ブレシア戦で直接FKでセリエA初ゴールを奪った[4]。1994-95シーズンから移籍したサンプドリアではレッドスター時代のチームメート、ヴラディミル・ユーゴヴィッチと再びチームメートとなった。スヴェン・ゴラン・エリクソンの指揮の下で、はじめてリベロでのプレーをするようになり、スーペルコッパ・イタリアーナのACミラン戦で直接FKから移籍後ゴールを挙げ、リーグ開幕節のパドバ戦で移籍後リーグ戦初ゴールを挙げた[4]。1998-99シーズンからはエリクソンの後を追う形でラツィオへ移籍、ミハイロヴィチの加入がチームに様々な好影響を与えることとなった[5]

1998-99シーズン、12月18日、第13節のサンプドリア戦ではフリーキックのみでのハットトリックを達成[4]、同シーズンは決勝でマヨルカを2-1と破りUEFAカップを優勝、翌シーズンはセリエA制覇、コッパ・イタリアの2冠に貢献する活躍をみせた。

2004-05シーズンにインテルへと移籍、2005-06シーズン、引退直前インテル時代の4月8日第33節のアスコリ戦では、の直接フリーキックによるゴールを挙げている[4](セリエA史上最多(28得点目))。現在はこの記録をアンドレア・ピルロと分け合う形で記録を保持している。

代表

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1991年5月16日の対フェロー諸島戦でユーゴスラビア代表デビューを果たした。1992年にはUEFA EURO '92のメンバーに選出されていたものの、内戦への制裁でチームは大会に参加出来なかった。

1998年フランスW杯では内戦による混乱から久々に国際舞台に復帰したユーゴスラビア代表としてプレー、グループリーグ初戦のイラン戦でフリーキックを決め[6]、第3戦のアメリカ戦ではスロボダン・コムリェノヴィッチの決勝ゴールをアシストし[6]、ベスト16入りに貢献した。 2000年にはEURO 2000に出場した[7]

指導歴

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現役引退後はインテルロベルト・マンチーニのアシスタントコーチとして2年間を過ごした。2008年11月にボローニャの監督に就任したが、成績不振により2009年4月に解任された。2009年12月からはカターニアの監督に就任した[8]

2010年5月末にカターニアの監督を辞任、続く6月3日にはフィオレンティーナチェーザレ・プランデッリの後任として就任すると発表[9]

2011年11月、成績不振により解任された[10]。 2012年5月、セルビア代表監督に就任。しかし、2014年ワールドカップ予選突破に失敗し、2013年11月辞任。 その後、サンプドリアの監督に途中就任すると、チームを残留に導く。そして2014-15シーズンはサンプドリアをUEFAヨーロッパリーグ出場権を勝ち取るほどの躍進へと導いた。2014-15シーズン終了後、サンプドリア監督を辞任。

2015年6月16日、2年契約にてミランの監督に就任することが発表された[11]。2016年4月12日、ミランの監督を解任された[12]

2016年5月25日、トリノの監督に就任し、2016-17シーズンは9位、コッパ・イタリアは16強で終えた。2018年1月4日成績不振で解任された[13]

2018年6月18日、サポーターによる襲撃及び選手の退団といった混乱が続くスポルティングCPの監督として招聘されたが、9日後に解任となることが発表された[14]

2019年1月29日、ボローニャFCの監督に就任した[15]。2022年9月6日に解任が発表された[16]

人物

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個人成績

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クラブ シーズン リーグ カップ 国際大会 その他 通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ヴォイヴォディナ 1988-89 31 4 31 4
1989-90 28 11 2 1 30 12
1990-91 14 4 14 4
通算 73 19 2 1 75 20
レッドスター 1990-91 14 1 3 1 5 1 22 3
1991-92 24 8 10 4 2 0 36 12
通算 38 9 3 1 15 5 2 0 58 15
ローマ 1992-93 29 1 7 5 5 1 41 7
1993-94 25 0 3 0 28 0
通算 54 1 10 5 5 1 69 7
サンプドリア 1994-95 25 3 2 0 6 1 1 1 34 5
1995-96 30 4 2 0 32 4
1996-97 28 2 1 0 29 2
1997-98 27 3 4 1 2 0 33 4
通算 110 12 9 1 8 1 1 1 128 15
ラツィオ 1998-99 30 8 4 1 9 0 1 0 44 9
1999-00 26 6 7 4 12 3 1 0 46 13
2000-01 18 4 2 1 8 2 1 1 29 8
2001-02 6 0 2 0 2 0 10 0
2002-03 21 1 1 0 6 0 28 1
2003-04 25 1 6 0 5 1 36 2
通算 126 20 22 6 42 6 3 1 193 33
インテル 2004-05 20 4 6 1 4 0 30 5
2005-06 5 1 5 0 3 0 13 1
通算 25 5 11 1 7 0 43 6
総通算 426 66 55 14 79 14 6 2 566 96

試合数

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国際Aマッチ 63試合 10得点(1991年-2003年 )


セルビア・モンテネグロ代表国際Aマッチ
出場得点
1991 4 0
1992 0 0
1993 0 0
1994 2 0
1995 3 2
1996 7 0
1997 10 2
1998 11 2
1999 5 0
2000 6 1
2001 6 2
2002 8 1
2003 1 0
通算 63 10

監督成績

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2022年9月7日現在
クラブ 就任 退任 記録
勝率
ボローニャ 2008年11月3日 2009年4月14日 22 4 8 10 018.18
カターニア 2009年12月8日 2010年5月24日 25 10 9 6 040.00
フィオレンティーナ 2010年6月4日 2011年11月7日 52 18 18 16 034.62
セルビア代表 2012年5月21日 2013年11月19日 19 7 4 8 036.84
サンプドリア 2013年11月20日 2015年6月1日 69 26 23 20 037.68
ミラン 2015年6月16日 2016年4月12日 38 19 10 9 050.00
トリノ 2016年5月25日 2018年1月4日 64 23 24 17 035.94
スポルティングCP 2018年6月18日 2018年6月27日 0 0 0 0 !
ボローニャ 2019年1月28日 2022年9月6日 142 46 38 58 032.39
合計 431 153 134 144 035.50

タイトル

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ヴォイヴォディナ・ノヴィ・サド

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レッドスター・ベオグラード

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ラツィオ

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インテル

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個人

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脚注

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  1. ^ a b トヨタカップ 1991年 大会公式パンフレット p.14-15 31-35
  2. ^ Red Star Belgrade - Bayern Munchen Apr24 1991”. www.transfermarket. 2020年9月10日閲覧。
  3. ^ Red Star Belgrade - CSD Colo Colo Dec8 1991”. www.transfermarket. 2020年9月10日閲覧。
  4. ^ a b c d Sinisa Mihajirovic All goals”. transfermarket.com. 2020年11月25日閲覧。
  5. ^ How Sven-Goran Eriksson’s Lazio won the Serie A title race of 1999-2000”. THE GUARDIAN. 2023年7月18日閲覧。
  6. ^ a b Sinisa Mihajirovic National team”. transfermarket.com. 2020年11月25日閲覧。
  7. ^ Mihajlović Siniša” (セルビア語). reprezentacija.rs. 2024年1月16日閲覧。
  8. ^ カターニア、ミハイロビッチ新監督の就任発表(サンスポ)2009年12月9日。同日閲覧。
  9. ^ Presentazione Sinisa Mihajlovicフィオレンティーナ公式(イタリア語),2010-6-3閲覧
  10. ^ Rossi nuovo allenatoreフィオレンティーナ公式(イタリア語),2011-11-8閲覧
  11. ^ WELCOME SINISA!ミラン公式,2015-7-23閲覧
  12. ^ ミランがミハイロビッチを解任 後任はブロッキが昇格”. 超ワールドサッカー (2019年4月12日). 2019年6月1日閲覧。
  13. ^ Mihajlovic esonerato” (イタリア語). TORINO FC 1906 SITO UFFICIALE. 2019年6月1日閲覧。
  14. ^ 就任からわずか9日…スポルディング、ミハイロヴィッチ監督を電撃解任”. サッカーキング (2018年6月28日). 2018年7月10日閲覧。
  15. ^ ボローニャ、インザーギ監督を解任…ミハイロヴィッチ新監督の就任を正式発表”. Goal.com. 2019年6月1日閲覧。
  16. ^ “ボローニャがミハイロビッチ監督を解任…白血病と闘いながら3年半指揮も今季開幕5戦未勝利”. 超ワールドサッカー. (2022年9月7日). https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=426189 2022年9月7日閲覧。 
  17. ^ È morto Mihajlovic, il duro dal cuore grande: stroncato dalla leucemia a 53 anni” (イタリア語). ガゼッタ・デロ・スポルト (2022年12月16日). 2022年12月16日閲覧。
  18. ^ ミハイロビッチ氏死去 サッカー元ユーゴ代表、53歳”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2022年12月17日). 2022年12月18日閲覧。

外部リンク

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