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ハニーカムズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・ハニーカムズから転送)
ザ・ハニーカムズ
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動期間
レーベル
旧メンバー
  • デニス・デル
  • ハニー・ラントリー
  • ジョン・ラントリー
  • マーティン・マレイ
  • アラン・ウォード
  • ピーター・パイ
  • コリン・ボイド
  • ロッド・バトラー
  • エディ・スペンス

ザ・ハニーカムズ英語: The Honeycombs)は、イギリスロックバンドである。ジョー・ミークのプロデュースの下、1964年に「ハヴ・アイ・ザ・ライト」がミリオンセラーを記録し[2]、1965年に来日し、ライヴを行っている。バンドの中心的メンバーは、紅一点でドラムス、ボーカル担当のハニー・ラントリーである。

オリジナル・メンバー

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名前 プロフィール 担当楽器
デニス・デル
英語: Denis D'Ell
1943年10月10日[3] - (2005-07-06) 2005年7月6日(61歳没)[4]
イングランドの旗 イングランド イーストエンド・オブ・ロンドン ホワイトチャペル
リード・ボーカル
ハーモニカ
マーティン・マレイ[注釈 1]
英語: Martin Murray
(1941-10-07) 1941年10月7日(83歳)
イングランドの旗 イングランド イーストエンド・オブ・ロンドン
リズムギター
アラン・ワード
英語: Alan Ward
(1945-12-12) 1945年12月12日(79歳) -
イングランドの旗 イングランド ノッティンガム[2]
リードギター
ジョン・ラントリー
英語: John Lantree
(1940-08-20) 1940年8月20日(84歳) -
イングランドの旗 イングランド バークシャー州 ニューベリー[2]
ベース
ハニー・ラントリー
英語: Honey Lantree
1943年8月28日 - (2018-12-23) 2018年12月23日(75歳没)[5]
イングランドの旗 イングランド ミドルセックス州ヘイズ[2]
ドラムス
ボーカル

来歴

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デビュー前

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前身は、マレイがリーダーを務めていたザ・シェラトンズというバンド。ドラム担当のメンバーが脱退し、アンがドラムを担当する。シェラトンズのメンバー入れ替えにより、後のハニーカムズのオリジナル・メンバーの顔ぶれが揃う。

バンドはロンドンで活動を続け、既にイギリスのチャートトップ曲2曲をプロデュースしたジョー・ミークと出会う。

ミルドメイ・タバーンというロンドンのパブで後にハニーカムズに多数の曲を提供する作曲家デュオのケン・ハワードアラン・ブレイクリーと出会い、ハニーカムズとコンビを組む。

そして、自宅にスタジオを構えていたミークの自宅でオーディションを行う。オーディションでバンドが演奏した曲は、後にチャートの首位を記録することになる「ハヴ・アイ・ザ・ライト」であった。

ハヴ・アイ・ザ・ライトのヒット

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1964年、ハニーカムズはパイ・レコードからシングル「ハヴ・アイ・ザ・ライト」でデビューを飾る。前述した通り、この曲は同年7月にチャートの首位を記録する。

またこの曲はイギリス以外の国でもヒットする。カナダオーストラリアでは1位、オランダで2位、アメリカで5位を記録するバンドの世界的なヒットとなった。更に、この曲はミリオンセラーを記録する。後にバンドはドイツ語バージョンの「ハヴ・アイ・ザ・ライト」を録音し、ドイツで21位を記録。

続く「イズ・イット・ビコーズ」、「アイズ」は好セールスには達しなかった。4枚目の、同じパイ・レコードに所属していたキンクスレイ・デイヴィス作の「サムシング・ベター・ビギニング」は39位を記録。

デビュー曲の「ハヴ・アイ・ザ・ライト」が世界中で大ヒットしたことを受け、ハニーカムズは世界ツアーを敢行した。オーストラリア極東でライヴを行った。更に日本でもライヴを行う。この模様は後に日本のみアルバム発売されている。イギリスに戻り、その日本での思い出を歌った「ラヴ・イン・トーキョー」という曲を録音している。

解散

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人気グループになったハニーカムズだが、デルとハニーがボーカルを担当した「ザッツ・ザ・ウェイ」がイギリスで12位を記録して以後、シングルはチャートインしていない。

そしてデル、パイ、ワードの3 人が一気に脱退し、コリン・ボイド、ロッド・バドラー、エディ・スペンスの3人が加入する。ボイド作のラスト・シングル「ザット・ラヴィング・フィーリング」を1966年に発売。

1967年2月3日、プロデューサーだったミークの猟銃自殺により、ハニーカムズは新曲のレコーディングを止め、解散に至る。

再結成した二つのハニーカムズ

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1990年代に、ハニーカムズは再結成を果たす。

しかし、それは元リーダーのマーティン・マレイが主要メンバーのハニーカムズと、デニス・デルピーター・パイジョンハニーラントリー兄妹がメンバーのハニーカムズであり、結果として二つのバンドが出来てしまった。

まず前者の方は、イタリアの起業家がマレイにハニーカムズを復活させてほしいとしていた。マレイは他のメンバーと相談したが、結局全員に断られ、新たにメンバーを募集して活動を始める。2010年代に入っても活動を続けている。

一方後者の方は、残りのメンバーが集まって、新たにポール・マッカートニー率いるウイングスの「007 死ぬのは奴らだ (曲)」を録音。1994年にはデビュー30周年を記念してコンサートを行っている。

ディスコグラフィ

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シングル

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全てパイ・レコードから発売。

発売年 A面 B面 最高位
UK
[6]
1964年 Have I The Right Please Don't Pretend Again 1位
1964年 Is It Because I'll Cry Tomorrow 38位
1964年 Eyes If You've Got To Pick A Baby -
1965年 Something Better Beginning I'll See You Tomorrow 39位
1965年 That's The Way Can't Get Through To You 12位
1965年 This Year, Next Year Not Sleeping Too Well Lately -
1966年 Who Is Sylvia How Will I Know -
1966年 It's So Hard I Fell In Love -
1966年 That Loving Feeling Should A Man Cry -

アルバム

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  • 1964年 - The Honeycombs
  • 1965年 - All Systems - Go!

脚注

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注釈

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  1. ^ 1964年11月にピーター・パイ(英語: Peter Pye (1946-07-12) 1946年7月12日(78歳) - )の後任として加入[1]

出典

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  1. ^ a b c Phares, Heather. The Honeycombs | Biography & History - オールミュージック. 2021年1月8日閲覧。
  2. ^ a b c d Murrells 1978, p. 176-177.
  3. ^ “Dennis D'Ell - Obituaries”. The Independent (Independent News & Media). (2005年7月22日). https://www.independent.co.uk/news/obituaries/dennis-dell-300694.html 2021年1月8日閲覧。 
  4. ^ Clayson, Alan (2005年7月18日). “Denis D'Ell”. The Independent. Independent News & Media. 2021年1月8日閲覧。
  5. ^ “Honey Lantree, Drummer of British Invasion Group The Honeycombs, Passes”. Celebrity Access (DIGITTO Media). (2018年12月26日). https://celebrityaccess.com/2018/12/26/honey-lantree-drummer-of-the-honeycombs-passes/ 2021年1月8日閲覧。 
  6. ^ HONEYCOMBS | full Official Chart History”. Official Charts Company. 2021年1月8日閲覧。

参考文献

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  • Murrells, Joseph (1978). The Book of Golden Discs (2nd ed.). London: Barrie and Jenkins Ltd. pp. 176–177. ISBN 0-214-20512-6. https://archive.org/details/bookofgoldendisc00murr/page/176 

関連項目

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