コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

コルネリス・クルーゼマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コルネリス・クルーゼマン
Cornelis Kruseman
自画像 (1812)
生誕 (1797-09-25) 1797年9月25日
オランダ、アムステルダム
死没 1857年11月14日(1857-11-14)(60歳没)
オランダ、リッセ
テンプレートを表示

コルネリス・クルーゼマン(Cornelis Kruseman、1797年9月25日 - 1857年11月14日)は、オランダの画家、版画家、イラストレーターである[1]。デン・ハーグなどで活動し、肖像画や風俗画を描いた。

略歴

[編集]

アムステルダムで生まれた。14歳になったころからアムステルダムの絵画学校(Amsterdamse Tekenacademie)に入学し チャールズ・ハワード・ホッジス(Charles Howard Hodges: 1764-1837)や ペテルス・アントニウス・ラフェリ(Petrus Antonius Ravelli: 1788 - 1861)、ジャン・オーギュスタン・ダイワイユ(Jean Augustin Daiwaille: 1786-1850)といった画家に学んだ[2][3]

アムステルダムで修行を続けた後、1821年にパリとイタリアで、4年間修業し[2]、フランスの画家 ジャン=ヴィクトール・シュネッツ(1787-1870)やルイ=レオポール・ロベール(1794-1835)に学んだ[3]

1825年にオランダに戻ると、デン・ハーグで活動し、1926年にイタリアの旅行記「C.クルーゼマンのイタリア滞在記(Aanteekeningen van C. Kruseman, betrekkelijk deszelfs kunstreis en verblijf in Italië)」を出版した。1831年にオランダ獅子勲章(Orde van de Nederlandse Leeuw)の騎士を受勲した。1832年10月に結婚した。

1841年から1847年まで2度目のイタリア滞在をした[2]。1847年から1854年までハーグに住み、その後、南ホラント州リッセに移り、そこで亡くなった。

肖像画や風俗画、聖書を題材にした絵画、風景画などで知られている。

クルーゼマンの教えた画家にはいとこのヤン・アダム・クルーゼマン(Jan Adam Kruseman: 1804–1862)やヘルマン・テン・カテ(Herman ten Kate: 1822-1891)、ジャワ島の貴族の息子のラデン・サレー(1811-1880)がいる[1]

作品

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b Cornelis Kruseman, Netherlands Institute for Art History, 2015. Retrieved on 16 May 2015.
  2. ^ a b c Muller, Sheila D. (2013). Dutch Art: An Encyclopedia. Routledge. p. 212. ISBN 9781135495749. https://books.google.com/books?id=ZPhLoy0FICMC&pg=PA212 
  3. ^ a b Norman, Geraldine (1977). Nineteenth-century Painters and Painting: A Dictionary. University of California Press. p. 125. ISBN 9780520033283. https://books.google.com/books?id=G_AIX2wVuj0C&pg=PA125 

参考文献

[編集]
  • Westrheene Wz., T. van (1859) "C. Kruseman, zijn leven en werken", Kunstkronijk 20 pp. 9–16.
  • Heteren, M. van, Meere, J. de (1998) Fredrik Marinus Kruseman (1816–1882)Painter of pleasing landscapes, Schiedam: Scriptum, p. 112.
  • Official Website of the Cornelis Kruseman J.M.C. Ising Foundation