イェウパトーリヤ
イェウパトーリヤ Євпаторія Евпатория Кезлев | |||||
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位置 | |||||
イェウパトーリヤの位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯45度12分 東経33度21分 / 北緯45.200度 東経33.350度 | |||||
行政 | |||||
国 | ロシア(事実上) ウクライナ (国連総会決議) | ||||
行政区画 | クリミア共和国 クリミア自治共和国 | ||||
基礎自治体 | イェウパトーリヤ | ||||
イェウパトーリヤ | |||||
地理 | |||||
面積 | |||||
域 | 120 km2 | ||||
標高 | 10 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2015年現在) | ||||
域 | 106,100人 | ||||
備考 | [1] | ||||
その他 | |||||
等時帯 | モスクワ時間 (UTC+3) | ||||
市外局番 | +380-6569 | ||||
公式ウェブサイト : http://www.kalamit.info |
イェウパトーリヤ(ウクライナ語: Євпато́рія,ロシア語: Евпатория, Yevpatoriya)は、クリミア半島にある都市で、基礎自治体イェウパトーリヤに属す。クリミア・タタール語の呼称はケズレブ(Кезлев,Kezlev)
歴史
[編集]このエリアでの居住に関して、最初に記録に残っているものとしては、紀元前500年ごろのギリシャ植民者によって建てられた"Kerkinitis"と呼ばれた居住地である。他のクリミア地方と同様に、ポントス王国のミトリダテス6世の支配地の一部であった。7世紀から10世紀頃、イェウパトーリヤは、ハザール語で"Güzliev (美しい家)"という名のハザールの居住地であった。 その後、クマン人、モンゴル人、クリミア・ハン国の影響を受けた。その間、街はクリミア・タタール人には"Kezlev"、オスマントルコ人には"Gözleve"と呼ばれていた。中世のロシアにおける"Kozlov"という名前は、クリミア・タタール人の都市名がロシア化されたものである。1478年から1485年までの短期間、街はオスマン帝国の支配を受けた。その後、クリミア・ハン国の中心地となった。1783年、クリミア半島全体がロシア帝国により併合された。1784年街の名前が"Evpatoriya"に改名された。クリミア戦争中の1854年、イギリス軍、フランス軍、トルコ軍によって街は占領された。ロシアによるクリミア半島の併合の後、イェウパトーリヤはクリミア・カライムの指導者"Gakham"の拠点となった。
現在も280人ほどのユダヤ人、130人ほどのクリミア・カライム人が生活している。主要民族はロシア人71.06%、ウクライナ人13.37%、クリミア・タタール人6.32%など
交通
[編集]施設
[編集]出身人物
[編集]- マリア・ゴロホフスカヤ - ソビエト連邦の元女子体操競技選手
- クセニア・シモノヴァ - サンドアーティスト
- セルゲイ・ソコロフ - ソ連の軍人
- アダビア・エフェンディエバ - クリミア・タタールの伝統装飾オルネクの代表的なデザイナー・刺繡職人
姉妹都市
[編集]- ヨアニナ、ギリシャ
- ザキントス、ギリシャ
- Lambie、ギリシャ
- ベルゴロド、ロシア
- Krasnogorsky District、ロシア
- オストロビエツ・シフィエントクシスキ、ポーランド
- ルートヴィヒスブルク、ドイツ
- フィゲイラ・ダ・フォズ、ポルトガル
脚注
[編集]- ^ “population.city”. 2 May 2023閲覧。