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エドマンド・グリンダル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
グリンダルから転送)
エドマンド・グリンダル
Edmund Grindal
カンタベリー大主教
教会 イングランド国教会
着座 1576年
離任 1583年7月6日
前任 マシュー・パーカー
後任 ジョン・ホイットギフト
個人情報
出生 c.1519年
イングランドの旗 イングランドカンバーランドen:St_Bees
死去 1583年7月6日
墓所 クロイドン教会
両親 父:
母:
出身校 ペンブルックホール
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エドマンド・グリンダル(Edmund Grindal, 1519年? - 1583年7月6日)は、イングランドにおけるエリザベス朝の聖職者であり、ロンドン主教、ヨーク大主教、カンタベリー大主教を歴任した人物。

幼少期からエドワード6世の崩御まで

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グリンダルは1519年頃、イングランド北部カンバーランドにあるセント・ビーズ村 (enで生まれた。同じくこの村出身で、後のヨーク大主教エドウィン・サンズ (enと兄弟のように過ごした。その後ケンブリッジ大学モードリン・カレッジクライスツ・カレッジペンブルックホールにて学び、1538年に学士、1541年には修士を取得している。

メアリーとエリザベス

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メアリー1世のカトリック回帰の影響で亡命を余儀なくされたグリンダルは、大陸のストラスブールフランクフルトに滞在している。この時、大陸の宗教改革家と親交を深めた。エリザベス1世の即位とほぼ同時期にイングランドに帰ってきたグリンダルは、1559年から1570年までロンドン主教の座に収まっていた。

一方、出身校ペンブルックホールの校長は1559年から1561年まで3年間務めた。

ヨーク大主教時代

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当時のカンタベリー大主教マシュー・パーカーに推され、グリンダルは1570年からヨーク大主教の座についていた。

カンタベリー大主教時代

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パーカーの死後、エリザベスの廷臣バーリー卿ウィリアム・セシルに強く推され、1576年カンタベリー大主教に着座した。1577年にエリザベスが出した「カンタベリー大主教管区における聖書釈義集会の全面禁止と各州の説教者を2~3人に削減する指示を管区内の各主教に伝達せよ」という命令に対し、拒否・反抗したために女王から職務停止と謹慎・蟄居を命じられた。死の直前になると目が見えなくなるなど老衰が進み、本人の希望もあって降任も検討され始めたが、結局職務停止などの処分はそのまま1583年にグリンダルが死ぬまで解かれることはなかった。職務停止になっていた6年間、カンタベリー大主教の職務はロンドン主教ジョン・エイルマー (enが代行していた。エイルマーはグリンダルと同じストラスブールへ亡命していたうちの一人である。その死後、ウースター主教ジョン・ホイットギフト (enがカンタベリー大主教を引き継いだ。

グリンダルの功績

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グリンダルは自身の故郷セント・ビーズにグラマースクールを設立している。

典拠

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  • Patrick Collinson, "Archbishop Grindal 1519-1583: The struggle for a reformed church", 1979, ISBN 0224017039
  • John Strype "Life and Acts of Edmund Grindal, Archbishop of Canterbury", 1710
  • Edmund Grindal "The remains of Edmund Grindal: successively Bishop of London and Archbishop", 1843
  • 中村茂・八代崇・金子啓一、他共訳 出村彰・徳善義和・成瀬治 他共編『宗教改革著作集12』1986年、教文館、ISBN 978-4-7642-3112-2
  • 植村雅彦 著『エリザベスとその時代 : イギリスの夜明け』1973年、創元社、ISBN 4422202138
  • 青木道彦 著『エリザベスⅠ世 大英帝国の幕あけ』2000年、講談社現代新書、ISBN 4061494864