コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

クバーニ・コサック軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クバン・コサックから転送)
クバーニ・コサック軍
クバーニ人民共和国の国旗(1918年)[1]
創設 1860年
廃止 1920年
再編成 1936年(ソ連の赤コサック軍)
所属政体 ロシア帝国クバーニ人民共和国
部隊編制単位 総軍
兵科 コサック軍
人員 9万人(1918年)
所在地 クバーニ地方
担当地域 タマン半島クバーニ川の流域
戦歴 仏露戦争
カフカース戦争
クリミア戦争
露土戦争
第一次世界大戦
ロシア内戦
テンプレートを表示

クバーニ・コサック軍ウクライナ語:Кубанське козаче військоロシア語:Кубанское казачье войско[2])は、1860年から1920年までクバーニ地方に存在したコサック軍の一つ。ザポロージャ・コサックの系統を受け継ぐウクライナ黒海コサックドン・コサックの系統を受け継ぐロシアカフカース防衛線コサック、並びにカフカースの諸民族出身の軍人から編成されていた。ロシア帝国によるカフカース地方の植民地化において先導的役割を果たした。

構成

[編集]

黒海衆

[編集]
19世紀末のクバーニ・コサック。クバーニ・コサックの軍服を着ているが、真ん中のコサック長老だけが18世紀のウクライナの黒海衆の軍服を着用している。
コサックのピラミッド。ウクライナ・コサックに遡る騎馬術。

クバーニ・コサック軍の中枢をなしていたのは、ザポロージャ・コサックの末裔、「黒海衆」とよばれるコサックであった。本来のザポロージャ・コサックは、ドニプロー川の下流、ウクライナ中部に在住しており、18世紀初に自治権を保ちながら、ロシア帝国の保護下に置かれていた。しかし、18世紀後半にロシアがポーランド・リトアニア共和国クリミア・ハン国を滅ぼすと、ロシア政府はコサックの自治権を侵害しつつウクライナ中部・南部の植民地化政策を実行しはじめた。ロシアの政策に対してコサックは反発したものの、1775年にロシア女帝エカチェリーナ2世はザポロージャ・コサックの本拠地を占領し、コサックの自治権を廃止した。コサックの大部分は帰農させられたが、3割のコサック(5千人)はオスマン帝国の領内、ドナウ川の川口へ逃亡し、1778年にオスマン帝国の保護を受けてドナウ・コサック軍を創立した。1787年露土戦争が勃発すると、アンチン・ホロヴァーティイザハーリイ・チェプィーハスィーヂル・ビールィイといったコサック長老をはじめ、数千人のコサックは、ロシアによるウクライナ・コサック復帰の約束を受け入れてロシア側に寝返り、ロシア政府は彼らをもって「忠義なるザポロージャ・コサック軍」を編成した。翌年、そのコサック軍は「黒海コサック軍」に改名され、1792年ノガイ・タタール人ならびにチェルケス人の居住地域、北カフカースと接しているクバーニ地方へ移住させられ、クバーニ西部の防衛と開発を任された。コサック軍は常にウクライナからの移民によって強化されており、1860年にクバーニにおけるウクライナ系コサックの人口は20万人まで達した。彼らはクバーニ地方の西部と中部(イェセーイ地区、エカテリノダール地区、テムリューク地区)を中心に居住し、ウクライナ語をはじめ、多くのウクライナの風習を守っていた。

防衛線衆

[編集]

クバーニ・コサック軍における二番目の要員は、ドン川の支流、ホピョール川の周辺に居住した、ドン・コサックの一派とされるホピョール・コサックであった。彼らは1696年露土戦争ロシアピョートル1世のために戦ったが、1708年に反ロシアのブラーヴィンの乱に参加にしたことによってピョートル1世から弾圧を受けて滅亡した。18世紀半ばにホピョール・コサックはロシア帝国によって再編成されてカフカースへ移住され、スタヴロポリ要塞を建設してカフカースの現地民と戦った。更に、このコサックは1828年にクバーニ地方、クバーニ川の上流へ移住され、1832年にカフカース防衛線コサック軍に改名され、「防衛線衆」と呼ばれるようになった。1860年に彼らは黒海コサック軍と共にクバーニ・コサック軍へ再編成され、クバーニ東部(カフカース地区、ラビン地区、マイコープ地区、バタルパシャー地区)を中心に住んでいた。

その他

[編集]

クバーニ・コサック軍には「黒海衆」と「防衛線衆」の他に「付加コサック」という両グループに属さない者もいた。彼らの中には、自由農民、陸軍の旧将兵、カフカースの諸民族の代表(チェルケス人チェチェン人など)などが含まれていた。

組織

[編集]
クバーニ・コサックからなるロシア皇帝の親衛隊。

ロシア帝国におけるクバーニ・コサックは、他のコサックと同様に農業を営み、軍役の義務がある非課税階級をなしていた。クバーニ・コサック軍の棟梁はコサックが選挙する軍のオタマン大将)であったが、19世紀後半にはロシア皇帝が任命する任命オタマン兼クバーニ州知事となった。その任命オタマンは州内の地区のオタマンたちを任命し、地区のオタマンたちはコサック集落(スタヌィーツャフーチル)の選任オタマンたちを部下にしていた。集落の最高機関は集落会であり、その集落会でオタマン・副オタマン・裁判官書記官・大蔵官といった集落役員が選ばれた。コサックは軍役の他に交代制で郵便役、道路・橋の修理役、警備役、警察役などを務めた。

1914年の直前には、クバーニ・コサック軍の人口は、約500の集落に居住する130万人のコサックとコサックの家族の一員(クバーニの人口の4割)からなっていた。また、クバーニ・コサック軍はクバーニ州とともに7つの地区(オトデール)に分かれていた。

  • イェセーイ地区
  • エカテリノダール地区
  • テムリューク地区
  • カフカース地区
  • ラビン地区
  • マイコプ地区
  • バタルパシャー地区

歴史

[編集]
クバーニ・コサックの軍服はカフカースの山民の民族衣装に由来する。このような軍服は、カフカースに住むクバーニとテレクのコサックのみが身に着けることが許されていた。
カフカース戦争。クバーニ・コサック対チェチェン人。
ドイツ軍下のクバーニ・コサック。

18世紀

[編集]

19世紀

[編集]

日露戦争

[編集]
軍は6142人の騎兵、2132人の歩兵、300人の砲兵をロシア側に出した。
1904年12月にクバーニ・コサックはA・ネポクープヌィイ大佐が率いる第1エカテリノダール・コサック連隊と、V・アクーロフ大佐が率いる第1ウーマニ・コサック連隊に編成され、カフカス・コサック混合師団に加えられた。また、師団の他に6つの大隊からなる第2クバーニ歩兵旅団も編成された。この旅団はM・マルティーノフ大将が指揮した。
1905年2月にクバーニ・コサックは満州へ出発し、4月に目的地に達した。到着後、いくつかの小競り合いに参加した。

第一次世界大戦

[編集]
  • 1914年:クバーニ・コサック軍は1万9千人のコサックまで達する。軍の構成は、11の騎兵連隊と1つの騎兵小軍団、2つの親衛百人隊、6つの歩兵大隊、5つの砲兵大隊、12つの小隊と1つの警察百人隊。
  • 1914年 - 1918年:クバーニ・コサック軍は第一次世界大戦に参加する。4年間の内に約9万人のコサックは、37の騎兵連隊、1つの特別コサック軍団、2つの親衛百人隊、24の歩兵大隊、24つの特別歩兵大隊、6つの砲兵大隊、51の混合百人隊、12つの小隊を構成し、軍役に服した。

ロシア革命と内戦

[編集]

クバーニの独立とソ連への編入

[編集]
  • 1918年 - 1920年:クバーニ・コサック軍が支配するクバーニ地方において、クバーニ・ラーダはクバーニの独立を宣言し、エカテリノダールを首都とするクバーニ人民共和国が成立する。ウクライナ国との連邦案を宣言する。
  • 1920年:クバーニ人民共和国は赤軍によって滅ぼされ、クバーニ・コサック軍は廃止される。クバーニ・コサックの富裕層は欧米へ逃亡する。
  • 1920年 - 1933年共産党政権によるコサック根絶政策が実行される。ソ連秘密警察によって数万人のコサックとコサックの家族が射殺され、あるいはシベリア収容所へ移される。
  • 1932年 - 1933年ホロドモール。共産党政権が計画的な飢饉により多数のコサックの餓死させる。クバーニにおけるウクライナ系共同体が強い打撃を受ける。
  • 1936年:共産党政権は非コサック人口(赤軍の将兵、秘密警察の将兵、現地の農民など)より赤クバーニ・コサック軍を編成し始める。入隊条件によると、ロシア革命期に赤軍と戦ったコサックとその子孫は赤コサック軍に加わることが厳禁。

第二次世界大戦

[編集]
  • 1941年 - 1945年第二次世界大戦においてクバーニ・コサックはナチス・ドイツ軍に味方し、ドイツ軍の下に二つのコサック騎兵軍団に編成される。一方、ソ連側はコサックの寝返りを防止するために赤クバーニ・コサック軍団を編成して戦争で活躍させる。

ソ連崩壊以後

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 赤は「黒海衆」、青は「防衛線衆」、緑は「カフカースの軍人」を象徴している。
  2. ^ クバーニ・コサック(ウクライナ語:Кубанські козаки;ロシア語:Кубанские казаки)、クバーニ衆(ウクライナ語:Кубанці;ロシア語:Кубанцы)。クバン・コサック軍とも。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]