ガブリエル・マリ
ガブリエル=マリ(Gabriel-Marie)ことジャン・ガブリエル・プロスペル・マリ(Jean Gabriel Prosper Marie, 1852年1月8日 パリ - 1928年8月29日 カタルーニャ州プッチサルダー)は、フランスの指揮者、作曲家。よく知られる小曲『金婚式』(La cinquantaine)の作者である。
生涯
[編集]パリ音楽院に学び、はじめ、ピアノ奏者・ティンパニ奏者として活動し、1881年 - 1887年、コンセール・ラムルーの合唱指揮者を勤めた。リヒャルト・ワーグナーに傾倒し、バイロイトにも行き、1887年5月3日、シャルル・ラムルーがパリで初めて『ローエングリン』を上演したときは、その合唱を指揮した。
1887年から1894年まで、国民音楽協会(Société nationale de musique)の演奏会を指揮した。この協会は、フランスの音楽を振興し、若手作曲家に作品発表の機会を与えるため、1871年にサン=サーンスらの主導で設立され、1886年からはセザール・フランクが、1890年からはヴァンサン・ダンディが会長であった。
1891年からは、トロカデロ宮のオルガン演奏会の指揮もした。トロカデロ宮は、1878年のパリ万博に際して現在のシャイヨ宮のある場所に建築され、そのコンサートホールに大きなオルガンが設置されたのである。
1894年から1902年までボルドーの聖セシリア協会管弦楽団(l'Orchestre de la Société Sainte-Cécile de Bordeaux、現在のボルドー・アキテーヌ国立管弦楽団 Orchestre national Bordeaux Aquitaine)を指揮した。
1902年にマルセイユへ移り住み、シーズン中はそこで、ヴァカンスの時期は保養地のヴィシーのカジノで指揮し、1912年に引退した。
1928年8月、ピレネーのプッチサルダー(プイサルダー)で突然客死した。76歳。死後の1930年、評論集『音楽のために』がパリで出版された。
なお、息子のジャン・ガブリエル=マリ(Jean Gabriel-Marie, 1907年 - 1970年)も作曲家であった。
音楽作品
[編集]ほかに、次の録音あるいは楽譜商品の記事が、ウェブ上にある。(順不同)
- 陽気なセレナード(Sérénade Badine)
- 前奏曲とフーガ(Prélude et Fugue)
- ドシラ……(Do Si La…)
- 新曲集(Nouvelles Compositions)
- 奉献祭(La Présentation)
- 13のスロヴァキアナ(Slovakiana, 13 Pièces)
- 嘆き(Lamento)(1918)
- 至上の幻想(L'Illusion Supreme )(1922)
- とねりこの木の下で、ワルツ(Sous les frenes)Valse
- 偉大な貴婦人、スコットランド舞踊(La grande dame, Scottische)
- 可愛い顔(Frais minois)
出典
[編集]いろいろなウェブ情報のほか、
- 岸辺成雄『音楽大事典』平凡社 (1983)
- 浅香淳『新音楽辞典 人名』音楽之友社 (1982)
外部リンク
[編集]- ガブリエル=マリーの伝記 (英文)
- ナクソスによるガブリエル=マリーの項目(英文)