マルコー・カーロイ
マルコー・カーロイ Markó Károly | |
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自画像 | |
生誕 |
1791年9月25日 現スロバキア,レヴォチャ |
死没 |
1860年11月19日 イタリア,フィレンツェ |
イタリアでカルロ・マルコ(Carlo Marco il Vecchio)と呼ばれたマルコー・カーロイ(Markó Károly、1791年9月25日 - 1860年11月19日)はハンガリー生まれの風景画家である。1832年から主にイタリアで活動した。同名の画家の息子( Markó Károly il Giovane:1822–1891)と区別するために「il Vecchio(the Elder)」が付加されることもある。
略歴
[編集]現在のスロバキアのレヴォチャで生まれた。10代になったころには絵画に興味があったが、1812年から1818年までペシュトやクルジュ=ナポカでエンジニアとして修業をし、スタラー・リュボフニャやロジュニャバで技師として働いた[1]。ロジュニャバで絵を描き始め、1818年にペシュトに移り、絵を学び4年後、ウィーンに移りウィーン美術アカデミーに入学し、歴史画や風景画を学んだ。
1826年からアイゼンシュタットに住み、画商の依頼でエステルハージ宮殿の美術品の模写をした。地方の銀行家の支援を受けるようになり、ハンガリーのヴィシェグラードで風景画を描き、この絵はよく知られている作品になった。
1832年からイタリアを旅し、フィレンチェ、ヴェネツィア、ボローニャ、ローマを訪れた。ローマでは画家のヨーゼフ・アントン・コッホや彫刻家のベルテル・トルバルセンと知り合い、オーストリアやイタリアの貴族から仕事を得た。1838年にローマでマラリアにかかり、ピサに移った。1840年にフィレンチェの美術アカデミーの教授に選ばれた。フィレンツェで人気のある画家になり、フィレンツェに定住し、ハンガリーには、1853年に一度帰っただけだった。
フィレンチェで没した。息子のマルコー・カーロイ(Markó Károly(il Giovane):1822–1891)、 マルコー・アンドラーシュ(Markó András: 1824–1895)、マルコー・フェレンツ(Markó Ferenc: 1832–1874)も画家になった[2]。
作品
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ヴィシェグラード(1826)
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虹のかかったイタリアの風景(1838)
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夕暮れのイタリアの風景と漁師(1851)
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ハンガリー平原の井戸(1858)
脚注
[編集]- ^ Markó Károly the Elder, su askart.com. URL consultato il 12 gennaio 2019.
- ^ Markó, Hungarian family of painters, su wga.hu. URL consultato il 12 gennaio 2019.
参考文献
[編集]- Constantin von Wurzbach: Markó, Karl. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. 16. Theil. Kaiserlich-königliche Hof- und Staatsdruckerei, Wien 1867, S. 459–467 .
- Rudolf Müller: Marko, Karl Andreas Gabriel. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 20, Duncker & Humblot, Leipzig 1884, S. 387–391.
- I. Chalupecký–Z. Fallenbüchl: Markó Károly. In: Österreichisches Biographisches Lexikon 1815–1950 (ÖBL). Band 6, Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, Wien 1975, ISBN 3-7001-0128-7, S. 97.