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毌丘甸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カン丘甸から転送)

毌丘 甸[1](かんきゅう でん、? - 正元2年(255年))は、中国三国時代の人物。子邦司隸河東郡聞喜県の人。父は毌丘倹

生涯

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治書侍御史の官にあり、都で名声を集めていたが、司馬師からはその人柄を嫌悪されていた。司馬師が皇帝曹芳を廃位すると父の毌丘倹に「父上は地方の長官として重い任務に就いています。国家が傾覆しているのに晏然としているだけでは、四海の人々から責められましょう」と告げた。毌丘倹が司馬師打倒の兵を挙げる(毌丘倹・文欽の乱)と家族を連れ都を脱出、新安霊山へと逃れるが追討を受け、毌丘倹の三族は皆殺しとなった。

妻の荀氏は、荀顗の上表により放免された。娘の毌丘芝(潁川太守劉子元の妻)も荀氏の助命嘆願を受け、何曾が「嫁入り前の娘は父母の刑罰、既に婚礼の杯を受けた婦人は夫の家の刑罰にのみ従えば良い」と上議し、またこれも認められた[2]

小説『三国志演義』では第110回で登場。前述のものとほぼ同じ言葉を父の毌丘倹に告げる。

出典

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脚注

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  1. ^ 「毌」は毋、母と似ているが全く違う字で、「貫」の「貝」を抜いた字。
  2. ^ 房玄齢等『晋書』刑法志より。なお当該記述は「毋丘儉之誅,其子甸妻荀氏…」、同何曾伝では「毋丘儉誅,子甸、妻荀應…」であり、荀氏は毌丘倹の妻とも、毌丘甸の妻とも解釈できるが、『三国志』魏書何夔伝注『晋紀』は「時毌丘儉孫女適劉氏…女母荀…」=劉氏(毌丘芝)を毌丘倹の孫娘としていることから、その母の荀氏は毌丘甸の妻として扱う。