エノラ・ゲイ
エノラ・ゲイ(アメリカ英語: Enola Gay)は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー[1]82、機体番号44-86292号機。
1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市に原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また、同年8月9日の長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。
概要
[編集]エノラ・ゲイは、ネブラスカ州に存在したグレン・L・マーティン・カンパニー ベルビュー工場(現オファット空軍基地)で製造された。その後、ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。1945年7月6日にはアメリカ本土からテニアン島へ到着し、その日のうちに原爆を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。
配属当初、ビクターナンバー「12」が割り当てられたが、所属部隊を表す垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心にRへと変更したため、誤認防止のため「82」へ変更された[注釈 1]。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。
エノラ・ゲイは9回の訓練ののち、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」(L6テスト)[3]を投下した[注釈 2]。
機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである[5]。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。
事前投下訓練
[編集]機体番号292 ビクターナンバー12[6]は、合計9回の投下・飛行訓練に使用された。7月7、9、12、19、22日以外は、機長はルイスRobert A. Lewis(クルーB-9)だった。
- 7月7日 出撃命令9号 マルカス島(南鳥島)爆撃
5機[7]で行う。各機、型500ポンド一般目的弾20発を投下。
機長は、デヴォアーRalph N. Devore(クルーA-3)だった[8][9]
- 7月9日 出撃命令11号 マルカス島(南鳥島)爆撃
5機[10]で行う。各機、500ポンド一般目的弾20発を投弾。
機長は、デヴォアーRalph N. Devore(クルーA-3)だった[11]。
- 7月12日 出撃命令14号 ロタ島爆撃
4機[12]で行う。各機、1000ポンド一般目的弾6発を投弾。
機長は、プライス James N. Price, Jr. (クルーB-7)だった[13][14]。
- 7月17日 出撃命令16号 機器調整とオリエンテーション
2機[15]で行う。機器調整および周辺オリエンテーション。
ファラロン・デ・パジャロス(farallon de Pajaros)へ行き、マウグ(Maug)島を経由してロタ島周辺に至りティニアンに帰る[16]。
- 7月18日 出撃命令17号 夜間調整訓練
2機[15]で行う。夜間オリエンテーション[17]。
- 7月18日 出撃命令18号 ググアン島爆撃
4機[18]で行う。各機、1000ポンド一般目的弾6発を投弾[19]。
- 7月19日 出撃命令19号 ググアン島爆撃
5機[20]で行う。各機、1000ポンド一般目的弾6発を投弾。
このとき、機長はウィルソンJohn A. Wilson(クルーB-6)だった[21][22]。
- 7月21日 訓練作戦 出撃命令21号 マルカス島(南鳥島)爆撃
2機[23]で行う。各機、500ポンド一般目的弾20発を投弾。[24]
- 7月22日 出撃命令22号 Practice Bombinng(基地周辺爆撃)
7機[25]で行う。機長はマックナイトCharles F. McKnight(クルー B-8)[26]だった。
1000ポンド一般目的爆弾6発を投弾[27]。
パンプキン爆弾の投下
[編集]1945年7月6日にアメリカ本土からテニアン島へ到着して以来、15組のクルーのうちクルーB-9は、エノラ・ゲイを様々な飛行訓練に使用した。第509混成部隊は、1945年7月20日から実戦として約2トンのTNT爆薬を搭載したパンプキン爆弾の投下を日本各地で行った。機体番号292 ビクターナンバー12(エノラ・ゲイ)は、次の作戦に参加した。
7月24日 出撃命令24号(作戦任務5,6,7)
[編集]作戦任務番号5,6,7の文書に詳細が記入されている。
出撃命令24号。作戦日 1945年7月24日。第509混成部隊のシルバープレート10機[28]が参加。そのうちの1機が機体番号292 ビクターナンバー12(エノラ・ゲイ)であった[29]。機長ルイス、クルー B-9。補助乗員にビーブ(Vernon C. Beebe)が加わる[30]。
結果報告書(最終報告、任務No.6)には次のようなことが書かれている。
「投弾目標は、神戸製鋼、目標番号1768(北緯34°41’45”–東経135°13’20”)。目視投弾。爆撃の結果は投弾後観測せず。投弾後目標が雲に隠れたため。」[31]。
戦後、この着弾地点は不明のままであった。近年の調査(日記と航空写真など)によって、 兵庫県立神戸高等学校裏手の摩耶山(まやさん)に着弾した可能性が浮上している[32][33]。
7月26日 出撃命令27号 名古屋
[編集]任務番号9。10機が出撃[34][35]。292号機は機長 ルイス。クルー B-9。補助乗員にビーブ(Vernon C. Beebe)が加わる。
「最終報告」によれば、292号機は、名古屋(北緯35°08’ - 東経136°55’)を攻撃。
天候は、10/10の雲が覆う[36]。レーダー攻撃[37]。
パンプキン爆弾は、1945年7月26日午前9時41分、名古屋市昭和区山手通2丁目(八事日赤病院北交差点)に投下されていた。この場所で、1個の4.5トンの大型爆弾(これには通常の火薬が約2トンが詰め込まれていた)が爆発した。死亡5、傷1以上[注釈 3]。
広島市への原爆投下
[編集]作戦に関わった機体名、クルー名などをまとめると次の表になる[39]。
< 気象任務 > | |||||
---|---|---|---|---|---|
機体番号 | ビクターナンバー | 機長 | 機体名 | クルー | 備 考 |
298 | 83 | テイラー | フル・ハウス | A-1 | 長崎の気象観測 |
303 | 71 | ウィルソン | ジャビット3世 | B-6 | 小倉の気象観測 |
301 | 85 | エザリー | ストレート・フラッシュ | C-11 | 広島の気象観測 |
302 | 72 | 予備機 | トップ・シークレット | ||
< 攻撃班 > | |||||
292 | 82 | ティベッツ | エノラ・ゲイ | B-9 | リトルボーイ搭載 |
353 | 89 | スウィーニー | グレート・アーティスト | C-15 | ラジオゾンデ搭載 |
291 | 91 | マクォート | ネセサリー・エビル | B-10 | 写真撮影 |
354 | 90 | マックナイト | ビッグ・スティンク | B-8 | 硫黄島待機 |
304 | 88 | マクォートのための予備機 | アップ・アン・アトム |
最終報告には、爆撃の結果は「優秀」、任務成果は「優秀」と記載されている[40][41]。
1971年(昭和46年)に発刊された『広島原爆戦災誌 全巻』(本論4巻・資料編1巻 計5巻)のPDFファイル[42]の1408ページのうち29ページから30ページにウィリアム・スターリング・パーソンズ大佐の航空日誌が引用掲載されている。26ページには、「広島市への侵入経路」等の図が掲載されている。エノラ・ゲイのナビゲータだったヴァン・カークは飛行ログファイルを残している[43]。
テニアン島北飛行場を出発
[編集]8月4日の午後3時にブリーフィングが行われた。作戦に参加する7機の関係者が集まった。ティベッツ、パーソンズが作戦について説明した。8月5日、午後3時30分、原爆リトルボーイが組み立て小屋から地面に掘られた1.8m×4mのピットへ運ばれた。牽引されてきたB-29爆撃機 シルバープレート 82号機の機首に「エノラ・ゲイ」と書かれ、垂直尾翼のマークがRに書き換えられた。その後、原爆リトルボーイは油圧式ウィンチで爆弾倉に牽き上げられた。夕食までに給油と点検作業が行われた。出発直前、尾部銃手ボブは、写真班の将校、ジェローム・J・オシップから爆発の瞬間を撮影するようにK-20カメラを渡された[44]。エノラ・ゲイの機体を背に、ライトが輝く中で記念撮影後、午前2時20分、機内へ入り出発準備に入った[45]。午前2時45分、A滑走路から東へ離陸。この後、2分間隔でグレート・アーティスト、91号が離陸した[46]。
硫黄島上空
[編集]午前5時20分、硫黄島上空。3分後に3機が合流[47]。午前7時25分、ストレートフラッシュからの暗号無線を受信[48]。「全高度にわたり雲量は3/10以下」 「助言、第一目標に投下。」[49]
広島へ向かう
[編集]眼下に四国が見え、彼方に瀬戸内海が広がっていた。午前8時5分、攻撃始点。午前8時12分、高度9400mで相生橋から26Km東の投下点に至る。午前8時13分30秒すべてが爆撃手に任され、全員は保護めがねを付けた[50]。後方、1.6Kmにグレート・アーティストと3.2Kmに91号が飛行していた[50]。
広島市へ原子爆弾「リトルボーイ」投弾
[編集]午前8時15分17秒、上空9600mから投下[51]。エノラ・ゲイは、機体を60度に傾けて右に急旋回し速度を上げて急降下の退避飛行を行った。グレート・アーティストは爆発威力を測定する3個のラジオゾンデを投下し、60度に機体を傾け左へ急旋回して急降下で退避飛行を行った。リトルボーイ投下から43秒後、午前8時16分、相生橋から240m離れた島病院の上空540mで炸裂した[52][53]。目も眩む閃光のあと、2度の衝撃が機体を襲った[54]。尾部銃手ボブは銃座からキノコ雲の写真を撮影した[55]。
テニアン島北飛行場へ帰着
[編集]テニアン島まであと38分の上空で、ティベッツはファレル准将からの祝電を受け取った[56]。グレート・アーティストと91号はエノラ・ゲイを先に着陸させた。テニアン時間14時58分着陸(日本時間:13時58分)。12時間13分の飛行時間だった。写真班のオシップはボブからK-20カメラを受け取り、グレート・アーティスト、91号の機体下部に取り付けてあったK-17カメラの撮影済みフィルムを取りだし現像処理を行った。しかし、使用できるものはボブが撮影したキノコ雲の写真のみだった[57]。
駐機場で戦略航空軍司令官カール・トゥーイ・スパーツ大将がティベッツの飛行服の胸に殊勲十字章を着けた。他の搭乗員は銀星章が授与された。エノラ・ゲイの搭乗員は、その日の午後、医療関係者による診察を受け、報告会[58]に出席した。会場には、ジャイルズ(Barney Giles)、トゥワイニング( Gen Twining)、デイビス(Gen Davies)などが同席し[59]、バン・カークの報告などを聞いた。情報部将校ヘイズン・ペイエット Hazen Payette が司会進行し、報告を受けた。
トルーマン大統領は、ポツダム会談から帰国する途中の旅の4日目、オーガスタの乗組員と一緒に昼食をとっているときに、ホワイトハウスのマップルームの当直官フランク・グラハム大尉から電文を渡された[60]。
陸軍長官から大統領宛
ワシントン時間8月5日午後7時15分、広島に大型爆弾を投下。
先の実験をはるかにしのぐ結果
完全なる成功との第一報
その後、世界に向かって原子爆弾を広島へ投下したことを発表した。
広島への原爆投下を伝える米大統領の声明(抄)[61]
作戦終了後
[編集]1945年11月8日にニューメキシコ州、ロズウェル陸軍航空基地(現ウォーカー空軍基地)に到着。1946年4月29日にクロスロード作戦に参加するためクェゼリン環礁に向かうが、投下作戦がビキニ環礁に変更となったため、翌日にカリフォルニア州トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年7月24日にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地へと移送された。1946年8月30日には陸軍航空隊を除籍し、スミソニアン博物館名義へと変更されている。その後1953年12月2日メリーランド州、アンドルーズ空軍基地へ移送、そこで解体保存されることとなる。
スミソニアン博物館展示騒動
[編集]1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小され機体と簡単な説明文のみの展示となった。この一連の騒動の責任を取り、マーティン・ハーウィット館長は辞任した[62][63]。
その後、エノラ・ゲイはレストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。
前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。
その後、スミソニアン航空宇宙博物館は2025年に予定されている展示刷新に合わせて、原爆投下後の広島と長崎の街を写した写真の展示を計画している[64][65]。
乗組員
[編集]出撃当時の乗組員構成(全12名)。2014年7月28日、同機最後の生存者であったセオドア・ヴァン・カークが93歳で死去したため、ボックスカーを含め、原爆投下に参加した搭乗員の存命者はいなくなった[66]。
- 機長・操縦士:ポール・ティベッツ(Paul W. Tibbets, Jr.)
- 副操縦士:ロバート・A・ルイス(Robert A. Lewis)
- 爆撃手:トーマス・フィヤビー(Thomas Ferebee)
- レーダー士:ジェイコブ・ビーザー(Jacob Beser 1921〜92) - ボックスカーにも搭乗し、長崎の原爆投下にも参加した唯一の人物[67]。71歳で死去[68]。
- 航法士:セオドア・ヴァン・カーク (Theodore Van Kirk)- 原爆投下は「奪った命より多くの命を救った」戦争終結に必要な手段だったとしつつも、繰り返してはならない「過ち」であると語っている[69]。
- 無線通信士:リチャード・H・ネルソン(Richard H. Nelson 1925〜2003)- 「亡くなった人に対しては気の毒に思うが、原爆投下に参加したこと自体に後悔はない」と語っている[70]。
- 原爆点火装置設定担当:ウィリアム・S・パーソンズ(William S.Parsons)
- 電気回路制御・計測士:モリス・ジェプソン(Morris R. Jeppson)
- 後尾機銃手・写真撮影係:ジョージ・R・キャロン(George R. Caron)
- 胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード(Robert H. Shumard 1920〜67)
- 航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー(Wyatt E. Duzenberry 1913〜92)
- レーダー技術士官:ジョー・S・スティボリック(Joe S. Stiborik 1914〜84)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ティベッツ独立航空隊がテニアン島に到着したとき、驚いたことに東京ローズが「『ブラックアロー(黒い矢)飛行大隊』と『パンプキン』の皆さん、ようこそ」と放送したので、ティベッツは日本側が今回の作戦任務13号のことを知っていると思い、垂直尾翼のマークを書き換えることを命じた[2]。
- ^ 出撃命令31号。3機で実施。ビクターナンバー12(エノラ・ゲイ)の機長はティベッツ、副機長ルイス、他7名。ビクターナンバー9(グレート・アーティスト)の機長はスウィーニー、副機長アルバリー、他7名。ビクターナンバー11(ネセサリー・イーブル)は、機長マクォート、副機長アンダーソン、他7名。投下場所は記載されていない[4]。
- ^ 付録4 「10,000ポンド軽筒爆弾被弾地一覧表(1992年12月末現在)[38]
出典
[編集]- ^ 「勝利者番号」とも表記される
- ^ キャロン 2023, p. 383.
- ^ 模擬リトルボーイの6個目
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 56.
- ^ ユダヤ陰謀説のウソレムナント出版公式サイト
- ^ 機体番号44-86292の下3桁で表記。このときはまだ機体名「エノラ・ゲイ」の名称はない。また、ビクターナンバーも82ではない。
- ^ 機体番号 292、300、303、354、353
- ^ 通常は、機体番号44-27299(ネクスト・オブジェクトNext Objectiveビクターナンバー86)に搭乗
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 30.
- ^ 機体番号 291、300、302、298、292
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 32.
- ^ 機体番号 297、353、354、292
- ^ 通常は、機体番号44-27296(サム・パンプキン Some Punkins ビクターナンバー84)に搭乗。
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 35.
- ^ a b 機体番号 291、292
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 37.
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 38.
- ^ 機体番号 291、292、353、354
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 39.
- ^ 機体番号 297、353、354、291、292
- ^ 通常は、機体番号44-27303(ジャビット3世 Jabit III ビクターナンバー71)に搭乗。
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 40.
- ^ 機体番号 291、292
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 43.
- ^ 機体番号 297、291、292、296、299、300、303
- ^ 通常は、機体番号44-27302(トップ・シークレット Top Secret ビクターナンバー72)に搭乗。
- ^ 原爆投下の経緯 1996, p. 44.
- ^ 機体番号 298、 299、297、353、291、300、292、302、301、296
- ^ 原爆投下の経緯 1996, pp. 46–47.
- ^ The Atomic Heritage Foundation (AHF) (2002年). “Vernon C. Beebe”. https://ahf.nuclearmuseum.org/. 2024年1月20日閲覧。
- ^ 原爆投下の経緯 1996, pp. 88–89.
- ^ 神戸学生青年センター (2023年). “講演会 広島原爆の前に、神戸山中に「模擬爆弾パンプキン」が落とされた”. https://ksyc.jp/. 2024年1月4日閲覧。
- ^ 西岡 孔貴 2023, pp. 44–48.
- ^ 291、302、301、354、296、292、304、298、353、299
- ^ 原爆投下の経緯 1996, pp. 50–51.
- ^ 原爆投下の経緯 1996, pp. 94–95.
- ^ 米軍資料 原爆投下報告書 1993, p. 43.
- ^ 米軍資料 原爆投下報告書 1993.
- ^ 原爆投下の経緯 1996, pp. 60–61.
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- ^ 奥住喜重 & 工藤洋三 2002, pp. 43–44.
- ^ 広島平和記念資料館 学芸課 (1999年). “広島原爆戦災誌 全巻” (PDF). https://hpmm-db.jp/. 広島平和記念資料館. 2024年1月15日閲覧。
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- ^ キャロン 2023, p. 389.
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- ^ キャロン 2023, pp. 392–394.
- ^ キャロン 2023, p. 404.
- ^ キャロン 2023, pp. 407–408.
- ^ キャロン 2023, p. 408.
- ^ a b キャロン 2023, p. 410.
- ^ キャロン 2023, p. 411.
- ^ キャロン 2023, p. 413.
- ^ 公式には、午前8時15分である
- ^ キャロン 2023, p. 414.
- ^ キャロン 2023, p. 415.
- ^ キャロン 2023, p. 419.
- ^ キャロン 2023, pp. 419–422.
- ^ 「事情聴取」、「聴聞会」などと表記される
- ^ 奥住喜重 & 工藤洋三 2002, p. 45.
- ^ キャロン 2023, p. 424.
- ^ NHKアーカイブス (2016年). “広島への原爆投下を伝える米大統領の声明(抄)”. 2024年1月20日閲覧。
- ^ マーティン・ハーウィット 1997.
- ^ フィリップ・ノビーレ & バートン・J・バーンステイン 1995.
- ^ 朝日新聞社 (2023年12月5日). “核といのちを考える 形見の弁当箱「米兵への侮辱」 28年前、展示中止された館長の無念”. https://www.asahi.com/. 朝日新聞. 2024年1月20日閲覧。
- ^ 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター (2015年2月28日). “[ヒロシマは問う 被爆70年 幻の米原爆展の資料寄贈 スミソニアン元館長が地元文書館に 1995年計画時の文書・書簡]”. https://www.hiroshimapeacemedia.jp/. 中国新聞. 2024年1月20日閲覧。
- ^ “広島に原爆投下最後の生存者死去 T・カーク氏、93歳”. 共同通信. (2014年7月30日). オリジナルの2014年8月5日時点におけるアーカイブ。 2014年7月30日閲覧。
- ^ “私たちは互いに人間にすぎない|アリ・ビーザー|TEDxSaikai”. 2023年4月7日閲覧。
- ^ “私たちは互いに人間にすぎない|アリ・ビーザー|TEDxSaikai”. 2023年4月7日閲覧。
- ^ 中前博之 (2015年8月6日). “エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い 広島に原爆投下のB29に搭乗”. 日本経済新聞 2017年7月15日閲覧。
- ^ Kindy, David. “Why the Aircraft That Dropped the First Atomic Bomb Will Always Inspire Debate” (英語). Smithsonian Magazine. 2020年8月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 城由紀子「スミソニアン協会原爆展に対する米国主要紙の論調分析」『時事英語学研究』第1996巻第35号、日本メディア英語学会、1996年、doi:10.11293/jaces1962.1996.35_51。
- Caron, George R.、Meares, Charlotte E. 著、金谷俊則 訳『わたしは広島の上空から地獄を見た エノラ・ゲイの搭乗員が語る半世紀』文芸社、2023年(原著1995年)。ISBN 978-4-286-30086-3。
- Martin Harwit『拒絶された原爆展 歴史のなかの「エノラ・ゲイ」』山岡清二・渡会和子・原 純夫、みすず書房、1997年(原著1996年)。ISBN 4-622-04106-5。
- Philip Nobile、Barton J. Bernstein『葬られた原爆展 スミソニアンの抵抗と挫折』諏訪幸男・三国隆志・藤井美代子・新谷雅樹・吉田雅之、五月書房、1995年9月18日。ISBN 4-7727-0236-9。
- Campbell, Richard H. (2005). The Silverplate Bombers: A History and Registry of the Enola Gay and Other B-29's Configured to Carry Atomic Bombs. Jefferson, North Carolina: McFarland & Company, Inc.. ISBN 978-0-7864-2139-8
- 奥住喜重、工藤洋三『ティニアン・ファイルは語る 原爆投下暗号電文集』奥住喜重(自費出版)、2002年。ISBN 978-4990031442。
- 西岡 孔貴『1945年7月24日に神戸製鋼所へ投下されたパンプキン』 25巻、空襲・戦災を記録する会〈空襲通信〉、2023年、44-48頁。
- 奥住喜重、工藤洋三、桂哲男 訳『米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎』東方出版、1993年。ISBN 4-88591-350-0。
- 奥住喜重、工藤洋三 訳『原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで 米軍資料』東方出版、1996年。ISBN 4-88591-498-1。
エノラ・ゲイを題材とした文学・芸術作品
[編集]- オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク – エノラ・ゲイを題材にした曲(「エノラ・ゲイの悲劇」)が存在するOrchestral Manoeuvres In The Dark - Enola Gay (Official Music Video) - YouTube。『オーガニゼーション』Organization (1980年)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Naval History and Heritage が2010-08-05に公開。B-29爆撃機エノラ・ゲイへの原子爆弾リトルボーイの運搬・搭載、エノラ・ゲイの出発映像。Atomic Bomb Footage: Tinian (1945) - Part 1 - YouTube
- Naval History and Heritage が 2010-08-05 公開。テニアン基地へ帰着したエノラ・ゲイ。機長ポール・チベットへの殊勲十字章の授与。Atomic Bomb Footage: Tinian (1945) - Part 2 - YouTube
- Hoover Institution Library & Archives が 2018-06-05 公開。 Motion picture film(広島原爆・長崎原爆に関連する動画映像)広島・長崎のキノコ雲動画映像など。広島原爆投下後テニアン基地へ帰着したB-29爆撃機グレート・アーティスト(ビクターナンバー89)の映像の後にエノラ・ゲイの機影(ビクターナンバー82)が録画されている。Harold Agnew Atomic Bomb film - YouTube