コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

インド門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インディア・ゲートから転送)
インド門
इण्डिया गेट
インドの旗 インド
1914年–1921年に戦死した軍人を追悼
創立1921年2月10日
完成1931年2月12日
所在地北緯28度36分46.31秒 東経77度13分45.5秒 / 北緯28.6128639度 東経77.229306度 / 28.6128639; 77.229306座標: 北緯28度36分46.31秒 東経77度13分45.5秒 / 北緯28.6128639度 東経77.229306度 / 28.6128639; 77.229306
インド門の位置(デリー内)
インド門
インド門 (デリー)
設計エドウィン・ラッチェンス
インド門
地図
地図

インド門 (India Gate, 原名は全インド戦争記念碑 (All India War Memorial)) はインドデリーにある慰霊碑ニューデリーの「儀式の軸」の東端にあるラジパース(以前はキングスウェイと呼ばれた)に沿って建つ戦争記念碑である[1]1914年から1921年の間に第一次世界大戦フランスフランドルメソポタミアペルシャ東アフリカガリポリなど近・極東、第三次アングロ・アフガン戦争で戦死したイギリス領インド陸軍の兵士7万人の記念碑として建てられた。門にはイギリスの兵士や将校を含む13,300人の軍人の名前が刻まれている[2]エドウィン・ラッチェンスが設計したこの門は、ローマコンスタンティヌスの凱旋門などの凱旋門の建築様式を思わせ、パリエトワール凱旋門ムンバイインド門に例えられることが多い。

1972年バングラデシュ独立戦争の後、アーチの下には黒大理石の台座に軍用ヘルメットを被せた逆さのライフルを載せ、4つの永遠の炎で囲まれた構造物が建てられた。アマル・ジャワン・ジョティ(不滅戦士の炎)と呼ばれるこの建造物は、1971年以来、インドの無名戦士の墓となっている。インド門はインド最大の戦争記念碑の一つに数えられており、毎年、共和国記念日には首相がこのアマル・ジャワン・ジョティに敬意を表して門を訪れ、その後、共和国記念日のパレードが始まる。また、ニューデリーの市民社会の集会の場ともなっている。

歴史

[編集]
1930年代にインド門を通過する装甲車

インド門建設は第一次世界大戦で戦死した兵士の墓や記念碑を建てるために1917年12月に設立された帝国戦争墓地委員会(I.W.G.C.)の事業の一環だった[3]。 門の礎石は1921年2月10日16時30分、英領インド軍の将校や兵士、帝国戦務部隊英語版、総司令官、インド総督チェルムスフォード男爵が出席した式典で、訪印中のコンノート公爵によって敷設された[4]。 その場で、総督は「個々の英雄の感動的な物語は、この国の歴史の中で永遠に生き続けるだろう」と述べ、「有名・無名」の英雄たちの記憶に敬意を表した記念碑は、将来の世代にも同じ様な不屈の精神と「それに劣らない勇気」を持って苦難に耐えるように鼓舞するだろうと述べたと伝えられている[4]。 公爵はまた国王からのメッセージを読み上げ、「この場所、インドの首都の中央の展望台に、後世の人々の思いの中に、「戦い、倒れた英領インド軍の将校や兵士たちの栄光の犠牲を残すために設計された記念アーチ道が建つだろう」と述べた。式典では、第9デカン・ホース英語版、第3サッパーズ・アンド・マイナーズ、第6ジャット軽歩兵英語版第34シーク・パイオニアズ英語版第39ガルフワール・ライフルズ英語版第59シンデ・ライフルズ (辺境軍)英語版第117マラーターズ英語版第5グルカ・ライフルズ (辺境軍)英語版が、第一次世界大戦中の英領インド陸軍の卓越した功労と胆力を称えられ、「ロイヤル」の称号を授与された[4]

記念碑の礎石敷設から10年後の1931年2月12日アーウィン卿はこの記念碑の落成式で、「私たちの後にこの記念碑を見る者は、その目的を考える中で、壁に書かれた名前が記録している犠牲と奉仕の何かを学ぶ事ができるだろう」と述べた[5]。 記念碑の礎石敷設から落成までの10年間、鉄道路線はヤムナー川に沿って走る様に変更され、1926年にはニューデリー駅が開業した[6][7]

毎晩19:00から21:30までライトアップされるこの門は、今日ではデリーで最も重要な観光名所の一つとなっている。通行止めになる以前は車がこの門を通っていた[要出典]。共和国記念日パレードはラシュトラパティ・バワンからスタートし、インド門を通過する[要出典]。インド門はニューデリー市民社会の抗議の場として人気があり、歴史的には2012年インド集団強姦事件ウナオ強姦事件英語版反汚職運動英語版などに対する抗議が行われている[8][9][10]

2017年に、インド門はラッチェンスが設計したもうひとつの記念碑であるイギリスレスター追憶のアーチ英語版と提携した。両者は非常に似たようなデザインを踏襲しているが、レスターの規模は小さくなっている。式典ではインドの駐英高等弁務官がレスターのアーチに花輪を、イギリスの駐印高等弁務官がインド門に花輪を捧げた[11]

デザインと構造

[編集]
ラジパースから望むインド門

この門はニューデリーの建設者であるだけでなく、戦争記念碑の設計者でもあるエドウィン・ラッチェンスが設計した物である。彼はI.W.G.C.のメンバーであり、ヨーロッパで最も優れた戦争記念碑と墓地の設計者の一人であった。1919年にはイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージの依頼を受けて、第一次世界大戦後初の国家的な戦争記念碑となったロンドンのセノタフをはじめ、ヨーロッパで66の戦争記念碑を設計した[3] 。ラッチェンスは伝記作家クリストファー・ハッシーによると、「宗教的装飾のない普遍的な建築様式」に基づいた記念碑のスタイルである「エレメンタル・モード」に依拠していたという。

「凱旋門の創造的な再構築」と称されて来たインド門の全長は30フィート(約9.1メートル)で、ニューデリーの中央展望台であり主要な儀式の行進ルートであるキングスウェイ(現在のラジパース)の東側の軸方向の端に位置している[3]。 高さ42メートル(138フィート)のインド門は、赤いバラトプル石の低い台座の上に立っており、段階的に巨大なモールディングへと上昇して行く。上部にある浅いドーム型のボウルは、記念日には燃える油で満たされる様に意図されていたが、これはめったに行われない[要出典]。 インド門とその六角形の複合体は、直径が約635メートルで面積は約306,000平方メートルである[要出典]

碑文

[編集]

インド門の軒には帝国の太陽が刻まれているが、アーチの両側にあるローマ数字のMCMXXIV ('1914'; 左側)とMCMXIX ('1919'; 右側)に挟まれる形で大文字で「INDIA」と刻まれている。大文字のINDIAの下には、以下のようなエピタフが刻まれている。

TO THE DEAD OF THE INDIAN ARMIES WHO FELL AND ARE HONOURED IN FRANCE AND FLANDERS MESOPOTAMIA AND PERSIA EAST AFRICA GALLIPOLI AND ELSEWHERE IN THE NEAR AND THE FAR-EAST AND IN SACRED MEMORY ALSO OF THOSE WHOSE NAMES ARE HERE RECORDED AND WHO FELL IN INDIA OR THE NORTH-WEST FRONTIER AND DURING THE THIRD AFGHAN WAR

(日本語訳)
フランス、フランダース、メソポタミア、ペルシャ、東アフリカ、ガリポリ、その他近極東の各地で倒れ、神聖な記憶の中で称えられているインド軍の戦死者たちへ また、インドや北西辺境州英語版で、第三次アフガン戦争中に戦死した人々の名もここに記す
門の上部に刻まれた碑文

13,218人の戦没者が門に名を刻まれ記念されている[要出典]。デリー・メモリアル(インド門のウェブサイトで、名前とそれぞれの死亡日、部隊名、連隊名、名前が刻まれている門の場所やその他の情報が記載されている)で見ることができるが、セキュリティ上の理由から、記念碑の名前を読む事は制限されている[要出典]。門には、1917年に戦死した領土軍英語版の女性看護師の名前も含まれている[12]

天蓋

[編集]
Canopy behind India gate
インド門付近の天蓋
スバス・チャンドラ・ボース像の公開式

インド門から東へ約150メートル、6つの道路が交差する場所に、6世紀のマハーバリプラムのパビリオンをモチーフにした高さ73フィートのキューポラがある。ラッチェンスは、ドーム型の天蓋とそのチャジャ英語版を支えるために、4本のデリー式のオーダーを用いた[13] [14]。 天蓋は、その年に没したインド皇帝ジョージ5世の追悼の一環として1936年に建設され、チャールズ・サージェント・ジャガー英語版作で高さ70フィート(21.34メートル)の大英帝国王冠をかぶりイギリスの宝珠と笏を持った、戴冠式の衣装姿のジョージ5世の大理石像を覆っていた[要出典]1936年から1968年に撤去されるまで、この像は王室の紋章とGEORGE V R I.の碑文が刻まれた台座の上に立っていた。「R I」は「Rex Imperator」または「King Emperor」としてジョージ5世を意味している[15]。 天蓋の上には元々、金色に輝くチューダー王冠英語版があり、ジョージ5世のロイヤル・サイファ英語版が飾られていたが、1958年8月12日に撤去された[16]

像は1947年のインド独立後20年間、元の場所に立ったままであったが、特に独立10周年と1857年に起こったインド大反乱100周年を境に、インドの一部政治家からの反対の対象となった[15]1965年独立記念日の2日前、サミュクタ社会党英語版のメンバーが警備していた2人の警官を制圧し、像にタールをかけ、王冠、鼻、片耳を汚し、スバス・チャンドラ・ボースの写真をモニュメントに残した[15]。 インド政府は像の移転を決定したが、このような姿勢を取った事に対しかなりの批判に直面した[要出典]。イギリス政府は、適切な場所や十分な予算がない事を理由に、像をイギリスに返還するという提案を却下し、ニューデリーのイギリス高等弁務官事務所は、スペースが限られていることを理由に像の移転を拒否した[15]。 デリーの公園に像を移そうとする努力は、当時デリーで権力を握っていた民族主義政党インド大衆連盟英語版によって強く反対された[15]。 最終的に1968年末、像は天蓋の下から撤去され、一時的に保管された後、デリーのコロネーション・パーク英語版に移され、他の英領インド時代の像と一緒になった[15]

像の撤去が議論されている間も撤去後も、天蓋の下にマハトマ・ガンジーの像を設置することがしばしば提案された[15]。この提案はインド議会でも議論された[要出典]1981年、政府は議会での質問に答えて、空になった天蓋の下にガンジー像を設置することを検討している事を確認したが、実行されなかった[17]

2022年9月8日、天蓋の下に設置される高さ28フィートスバス・チャンドラ・ボース花崗岩が公開され、首相ナレンドラ・モディが公開式に参加した[18]

アマル・ジャワン・ジョティ

[編集]
インド門のアーチの下にあるアマル・ジャワン・ジョティ

アマル・ジャワン・ジョティ(不滅兵士の炎)は、1971年12月のバングラデシュ独立戦争で戦死したインド人兵士を追悼するためにインド門の下に建立された、黒大理石の台座に軍用ヘルメットを被せた逆さのL1A1自動小銃を載せ、圧縮された天然ガスの炎からの恒久的な光(ジョティ)で照らす4つの壷で結ばれた構造物である[19]1972年1月26日の第23回インド共和国記念日に、当時のインディラ・ガンジー首相によって落成した[20]。 アマル・ジャワン・ジョティが設置されて以来、インドの無名戦士の墓として機能している[要出典]。 軍が24時間体制で警備している[要出典]。アマル・ジャワン・ジョティには、共和国記念日、戦勝記念日英語版(Vijay Diwas)、歩兵の日には、首相と軍の参謀長によってリースが置かれる[21]。歩兵の日は1947年10月27日にインドの歩兵部隊がスリナガルに上陸し、パキスタンの傭兵によるジャンムー・カシュミール藩王国への攻撃を阻止し、撃退した日の事である。第68回歩兵の日は、陸軍参謀総長ダルビル・シン将軍と、歩兵退役軍人を代表してチャンドラ・シェカール中将(退役軍人)が献花した[22]

国立戦争記念碑

[編集]

2014年7月、政府は天蓋の周囲に国立戦争記念碑を建設し、隣接するプリンセスパークに国立戦争博物館を建設する計画を発表した。内閣はこのプロジェクトのために50億ルピー(約6,600万米ドル)を配分した[23]。 国立戦争記念館は2019年1月に完成した[24][25]

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ Rashtrapati Bhavan museum ready to welcome visitors: 10 key attractions” (2016年7月24日). 2020年7月6日閲覧。
  2. ^ DELHI MEMORIAL (INDIA GATE)”. CWGC. CWGC (2014年). 3 September 2014閲覧。
  3. ^ a b c David A. Johnson; Nicole F. Gilbertson (4 August 2010). “Commemorations of Imperial Sacrifice at Home and Abroad: British Memorials of the Great War”. The History Teacher. 4 43: 563–584. http://www.societyforhistoryeducation.org/pdfs/Johnson_and_Gilbertson.pdf 9 April 2014閲覧。. 
  4. ^ a b c Connaught, Duke of, Arthur (1921). His Royal Highness The Duke of Connaught in India 1921 Being a Collection of the Speeches Delivered by His Royal Highness.. Calcutta: Superintendent Government Printing. pp. 69–71. OL 17945606M 
  5. ^ Metcalf, Thomas R. (31 March 2014). “WW I: India's Great War Dulce Et Decorum Est India Gate, our WW-I cenotaph, now stands for an abstracted ideal”. Outlook (31 March 2014). http://www.outlookindia.com/article.aspx?289882 8 April 2014閲覧。. 
  6. ^ “A fine balance of luxury and care”. Hindustan Times. (21 July 2011). オリジナルの27 November 2011時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20111127160500/http://www.hindustantimes.com/News-Feed/chunk-ht-ui-newdelhi100years-topstories/A-fine-balance-of-luxury-and-care/Article1-723880.aspx 
  7. ^ “When Railways nearly derailed New Delhi. It was also designed by BRIG V.K SHENOY.”. Delhi Weekend Getaways. (18 January 2011). オリジナルの22 March 2013時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130322051817/http://weekendgetawaysfromdelhi.in/ 22 April 2013閲覧。 
  8. ^ Dutta, Aesha (23 December 2012). “India Gate turns war zone as protests swell”. The Hindu Business Online. https://www.thehindubusinessline.com/news/india-gate-turns-war-zone-as-protests-swell/article20543914.ece1 4 September 2019閲覧。 
  9. ^ Ghosh, Dwaipayan (28 August 2012). “Limit public access to India Gate: Delhi Police”. Economic Times. https://economictimes.indiatimes.com/limit-public-access-to-india-gate-delhi-police/articleshow/15863509.cms?from=mdr 4 September 2019閲覧。 
  10. ^ PTI (29 July 2019). “Protest held at India Gate to demand justice for Unnao rape survivor”. India Today. https://www.indiatoday.in/india/story/protest-held-at-india-gate-to-demand-justice-for-unnao-rape-survivor-1574997-2019-07-29 4 September 2019閲覧。 
  11. ^ “Leicester and New Delhi war memorials links ceremonies”. BBC News. (25 May 2017). https://www.bbc.co.uk/news/uk-england-leicestershire-40045122 19 December 2018閲覧。 
  12. ^ Find War Dead”. Find War Dead:DELHI MEMORIAL (INDIA GATE). CWGC (2014年). 3 September 2014閲覧。
  13. ^ Stamp, Gavin (1981). “King George V Memorial, Princes' Place, New Delhi”. Lutyens: The Work of the English Architect Sir Edwin Lutyens (1869–1944). London: Arts Council of Great Britain. p. 180. ISBN 978-0-7287-0304-9 
  14. ^ Gradidge, Roderick (1981). Edwin Lutyens: Architect Laureate. London: George Allen and Unwin. p. 151. ISBN 978-0-04-720023-6 
  15. ^ a b c d e f g McGarr, Paul (2015). “The Viceroys are Disappearing from the Roundabouts in Delhi: British symbols of power in post-colonial India”. Modern Asian Studies 49 (3): 787–831. doi:10.1017/s0026749x14000080. 
  16. ^ “Crown over Delhi Statue Removed - George V Memorial”. The Times. (13 August 1958) 
  17. ^ India. Parliament. House of the People; India. Parliament. Lok Sabha (1981). Lok Sabha Debates. Lok Sabha Secretariat.. pp. 197–. https://books.google.com/books?id=xlI3AAAAIAAJ&pg=PA197 
  18. ^ 5 things about life and times of Subhas Chandra Bose” (英語). The Indian Express (2022年9月8日). 2022年9月10日閲覧。
  19. ^ Gupta, Geeta (10 June 2012). “Keeper of the flame”. indianexpress.. http://archive.indianexpress.com/news/keeper-of-the-flame/960016/0 10 April 2014閲覧。 
  20. ^ “Amar Jawan Jyoti”. indiagate.org.in. http://www.indiagate.org.in/amar-jawan-jyoti.htm 4 January 2017閲覧。 
  21. ^ Goswami, Col (retd) Manoranjan. “War memorial”. Assam Tribune. http://www.assamtribune.com/scripts/details.asp?id=aug3009/edit3 10 April 2014閲覧。 
  22. ^ Wreath Laying at Amar Jawan Jyoti on Infantry Day”. PIB, MOD. 29 June 2015閲覧。
  23. ^ Joseph, Josy (7 October 2015). “Cabinet clears Rs. 500 crore for National War Memorial” (英語). The Hindu. ISSN 0971-751X. https://www.thehindu.com/news/national/cabinet-clears-rs-500-crore-for-war-memorial-museum-for-postindependence-martyrs/article7734542.ece 2019年1月30日閲覧。 
  24. ^ Pandit, Rajat (1 January 2019). “Delhi: War memorial ready, 60 years after it was first proposed”. The Times of India. 3 January 2019時点のオリジナルよりアーカイブ2019年1月30日閲覧。
  25. ^ Bhatnagar, Gaurav Vivek (21 April 2018). “National War Memorial Takes Shape Six Decades After Being Conceived”. The Wire. 30 January 2019時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月30日閲覧。

関連項目

[編集]