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コナン・ベディエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コナン・ベディエ
Konan Bédié


任期 1993年12月7日1999年12月24日
1995年10月22日まで暫定大統領)
首相 アラサン・ワタラ
ダニエル・カブラン・ダンカン英語版

任期 1980年12月2日1993年12月7日
大統領 フェリックス・ウフェ=ボワニ

任期 1968年9月23日1977年7月27日
大統領 フェリックス・ウフェ=ボワニ

出生 (1934-05-05) 1934年5月5日
フランスの旗 フランス領西アフリカ コートジボワール植民地フランス語版 ダオクロ英語版
死去 (2023-08-01) 2023年8月1日(89歳没)
コートジボワールの旗 コートジボワール アビジャン
政党 コートジボワール民主党英語版
受賞
出身校 ポワティエ大学
配偶者 アンリエット・コナン・ベディエフランス語版(1957年 - 2023年)
子女 4人
宗教 キリスト教カトリック
訪日時、小渕恵三首相と(1999年6月29日

エーメ・アンリ・コナン・ベディエフランス語: Aimé Henri Konan Bédié, 1934年5月5日 - 2023年8月1日[1])は、コートジボワールの第2代大統領(在任:1993年 - 1999年)。

経歴

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前任の「建国の父」フェリックス・ウフェ=ボワニが在任中に死去したため、憲法上の規定に従い国民会議(国会)議長から暫定大統領に就任。しかし、ウフェボワニの築き上げた体制を維持する力はベディエには無く、経済は停滞し、政府の統治能力及び求心力は減退していった。

このため1995年の大統領選挙は不利と見られていたが、有力対抗馬のアラサン・ワタラブルキナファソ系であることに目をつけ、国籍法改正によりコートジボワール生まれの者だけが大統領選に出馬できるようにしたため、野党勢力のボイコットの中大統領選に勝利し、正式に第2代大統領となる。

また、ワタラ排除や経済社会状況打開のため、イヴォワリテ(コートジボワール人性)政策を採ってナショナリズムを煽った。ブルキナファソやガーナマリなどから来た移民の開拓した農地を認めず、南部の在来集団に有利な政策をとった。また、宗教的に差異のある北部(北部はイスラム教、南部はキリスト教)も、イヴォワリテ政策により冷遇されることとなった。

しかし、コートジボワールにおける移民の割合は26%にも達しており、コートジボワール経済の要であるカカオ生産を担っていたのは彼らであったため、この政策は加速度的に混乱を深めさせていくだけだった。さらに、北部はこの政策によって南部と対立を深め、後の内戦の重要な要因となった。

1999年12月24日、ロベール・ゲイ元参謀長らがクーデターを強行し、ベディエはフランスに亡命。しかしゲイが選挙に失敗し逃亡すると2001年に帰国し、2002年4月にコートジボワール民主党英語版 (PDCI) の党首に再選された。

2010年コートジボワール大統領選挙にも出馬したが、第一回投票にてローラン・バグボアラサン・ワタラに次ぐ第3位の得票数で敗退した。

2021年11月、PDCIシンポジウムの終盤にPDCIはベディエを和解担当の特別顧問に任命することを約束した。彼の選択は、元プラトー英語版市長で党の副党首であるノエル・アコッシ・ベンジョフランス語版に委ねられた。

2023年8月1日、死去した。死因は不明[1]。89歳没。

脚注

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公職
先代
フェリックス・ウフェ=ボワニ
コートジボワールの旗 コートジボワール共和国大統領
1993年 - 1995年は暫定大統領
第2代:1993年 – 1999年
次代
ロベール・ゲイ
コートジボワールの旗 コートジボワール共和国経済財務大臣フランス語版
第3代:1968年 – 1977年
次代
アブドゥライ・コネ
議会
先代
フィリップ・ヤセ英語版
コートジボワールの旗 コートジボワール共和国国民議会議長英語版
第2代:1980年 –1993年
次代
チャールズ・ボーザ・ドンワイフランス語版