ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト Juliane Henriette Ulrike von Sachsen-Coburg-Saalfeld | |
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結婚直後(1795~6年頃)に描かれたアンナ・フョードロヴナ大公妃の肖像画。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン筆。 | |
出生 |
1781年9月23日 神聖ローマ帝国 ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、コーブルク |
死去 |
1860年8月1日(78歳没) スイス、エルフェナウ |
配偶者 | コンスタンチン・パヴロヴィチ大公 |
子女 |
エドゥアルト(庶子) ルイーズ(庶子) |
家名 | ヴェッティン家エルンスト系 |
父親 | ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ |
母親 | アウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ |
ユリアーネ・ヘンリエッテ・ウルリケ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(ドイツ語: Juliane Henriette Ulrike von Sachsen-Coburg-Saalfeld, 1781年9月23日 - 1860年8月15日)は、ロシアの皇族、ロシア大公妃。コンスタンチン・パヴロヴィチ大公の最初の妻。ロシア語名はアンナ・フョードロヴナ(Анна Фёдоровна, Anna Feodorovna)。
生涯
[編集]ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツとロイス=エーベルスドルフ伯女アウグステの三女としてコーブルクに生まれた。弟にザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世、フェルディナント(ポルトガル王配フェルナンド2世の父)、ベルギー国王レオポルド1世、妹にケント公夫人ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの母)がいる。
コンスタンチン大公の花嫁探しをしていた女帝エカチェリーナ2世に選ばれ、わずか15歳で1796年に結婚。その9ヶ月後に女帝は亡くなった。
結婚生活は不幸だった。コンスタンチンは17歳で、粗野で子供っぽく、若い妻を惨めにさせるばかりだった。3年後の1799年、耐えられなくなったユリアーネは突然コーブルクへ帰った。じきにロシアへ戻り、コンスタンチンと関係を修復しようとするも、うまくいかなかった。1801年、ユリアーネは浅はかな情事を起こしてコーブルクへ向かい、二度とロシアへ戻らなかった。
1808年10月、ユリアーネはエドゥアルトという男児を出産した。父親はフランスの下級貴族だった。1812年からスイスのベルンに移ったユリアーネは、第2子ルイーズを出産した。父親はユリアーネの警護をしていたスイス人だった。
1814年、コンスタンチン大公がユリアーネを連れ戻すべくロシアからやってきたが、彼女は拒絶した。その年、ユリアーネはベルンの近郊エルフェナウに領地を手に入れ、ここで残りの人生を過ごすことになった。
1820年に、19年の別居を経て、コンスタンチンとの結婚は無効になった。