アレクサンダー・マレー (第6代ダンモア伯爵)
第6代ダンモア伯爵アレクサンダー・エドワード・マレー(英語: Alexander Edward Murray, 6th Earl of Dunmore、1804年6月1日 – 1845年7月15日)は、スコットランド貴族。1809年から1836年までフィンキャッスル子爵の儀礼称号を使用した[1]。
生涯
[編集]第5代ダンモア伯爵ジョージ・マレーと妻スーザン(Susan、旧姓ハミルトン(Hamilton)、1846年5月24日没、第9代ハミルトン公爵アーチボルド・ハミルトンの娘)の長男として、1804年6月1日に生まれた[2]。1816年から1820年ごろまでイートン・カレッジで教育を受けた[1]。
1826年8月1日、軽竜騎兵第9連隊のコルネット(騎兵少尉)への辞令を購入した[3]。1827年8月14日、中尉への辞令を購入して昇進した[4]。1828年7月3日、他人との交換で歩兵第60連隊に転じたが、同時に半給になったためその差額を受け取った[5]。1829年7月2日、他人との交換で歩兵第67連隊に転じ、同時に半給から脱したためその差額を支払った[6]。同年7月9日に再び歩兵第60連隊に転じた[7]。1832年8月10日、大尉への辞令を購入して昇進したが、この辞令では配属先の連隊がなかった[8]。その後、第88歩兵連隊に配属され、1833年6月21日に軽竜騎兵第10連隊に転じた[9]。1834年6月27日、他人との交換で所属連隊がなくなり、その代償として差額を受け取った[10]。1832年にケンブリッジ公爵アドルファス王子のエー=ド=カン(副官)に任命され、1845年に死去するまで務めた[2]。
フリーメイソンであり、1835年から1836年までスコットランド・グランドロッジのグランドマスターを務めた[1]。
1836年11月11日に父が死去すると、ダンモア伯爵位を継承、1837年4月24日に宣誓して貴族院議員に就任した[2]。政界では保守党に所属した[1]。1837年12月12日に第6代ネアーン卿ウィリアム・マレー・ネアーンが死去すると、ジャコバイト貴族におけるネアーン伯爵位の相続人になった[1]。
1840年、テイマウント(Taymount)の領地を第4代マンスフィールド伯爵ウィリアム・デイヴィッド・マレーに売却した[2]。
1845年7月15日、落馬事故によりカウンティ・ダラムのストレタム(Streatham)で死去、ダンモア(Dunmore)で埋葬された[2]。長男チャールズ・アドルファスが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1836年9月27日、キャサリン・ハーバート(1814年10月31日 – 1886年2月12日、第11代ペンブルック伯爵ジョージ・オーガスタス・ハーバートの娘)と結婚、1男3女をもうけた[2]。
- スーザン・キャサリン・メアリー(1837年7月7日 – 1915年4月27日) - 1860年11月29日、第9代サウセスク伯爵ジェームズ・カーネギー(1905年2月21日没)と結婚、子供あり[2][11]
- コンスタンス・ユーフェミア・ウォロンゾー(Constance Euphemia Woronzow、1838年12月28日 – 1922年[12]) - 1864年6月16日、第15代エルフィンストン卿ウィリアム・エルフィンストン(1893年1月18日没)と結婚、子供あり[2]
- チャールズ・アドルファス(1841年3月24日 – 1907年8月27日) - 第7代ダンモア伯爵[2][13]
- アレクサンドリナ・ヴィクトリア(Alexandrina Victoria、1845年7月19日 – 1911年11月21日) - 1887年4月20日、ヘンリー・カンリフ(Henry Cunliffe、1894年8月1日没、第4代準男爵サー・ロバート・ヘンリー・カンリフの息子)と結婚[2][13]
出典
[編集]- ^ a b c d e Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 545.
- ^ a b c d e f g h i j k Paul, James Balfour, Sir, ed. (1906). The Scots Peerage (英語). Vol. III. Edinburgh: David Douglas. pp. 392, 394–395.
- ^ "No. 18273". The London Gazette (英語). 1 August 1826. p. 1893.
- ^ "No. 18387". The London Gazette (英語). 14 August 1827. p. 1743.
- ^ "No. 18493". The London Gazette (英語). 5 August 1828. p. 1493.
- ^ "No. 18595". The London Gazette (英語). 21 July 1829. p. 1366.
- ^ "No. 18599". The London Gazette (英語). 4 August 1829. p. 1463.
- ^ "No. 18965". The London Gazette (英語). 10 August 1832. p. 1832.
- ^ "No. 19060". The London Gazette (英語). 21 June 1833. p. 1202.
- ^ "No. 19168". The London Gazette (英語). 27 June 1834. p. 1212.
- ^ Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1953). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume XII part 1: Skelmersdale to Towton. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 147.
- ^ "Constance Euphemia Woronzow (née Murray), Lady Elphinstone". National Portrait Gallery (英語). 2021年10月9日閲覧。
- ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 695.
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Alexander Murray
- アレクサンダー・マレー - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
フリーメイソン | ||
---|---|---|
先代 ダグラス=クライズデール侯爵 |
スコットランド・グランドロッジ グランドマスター 1835年 – 1836年 |
次代 ラムゼイ卿 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 ジョージ・マレー |
ダンモア伯爵 1836年 – 1845年 |
次代 チャールズ・アドルファス・マレー |