アレクサンドル・ジロティ
アレクサンドル・ジロティ Александр Зилоти | |
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ジロティ(左)とチャイコフスキー(右) | |
基本情報 | |
出生名 | Александр Ильич Зилоти |
生誕 |
1863年10月9日 ロシア帝国 ハリコフ |
死没 |
1945年12月8日(82歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク |
学歴 | モスクワ音楽院ピアノ科 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
ピアニスト 指揮者 作曲家 編曲家 |
担当楽器 | ピアノ |
アレクサンドル・イリイチ・ジロティ(ロシア語: Алекса́ндр Ильи́ч Зило́ти, ラテン文字転写: Aleksander Il'ich Ziloti, 1863年10月9日 ハリコフ近郊 - 1945年12月8日 ニューヨーク)はウクライナ出身のロシアのピアニスト・指揮者・作曲家・編曲家。フランツ・リストの最後の高弟の一人として、またセルゲイ・ラフマニノフの従兄として言及される。本人がドイツ語風にSilotiとする綴りを好んだため、日本では最近までこれを英語読みないしはフランス語読みして、「シロティ」と記されることが一般的であった。
1917年のロシア革命までは、最も重要なロシアの芸術家の一人であり、リスト、チャイコフスキー、アントン・アレンスキー、ラフマニノフ、イーゴリ・ストラヴィンスキーらに作品を献呈されている。作曲家としての評価よりも、演奏家や、バッハ、モーツァルト、ショパン、チャイコフスキーの編曲家として評価されている。指揮者としては、保守的な指向をとったラフマニノフとは対照的に、進歩的・開明的な姿勢をとり、同時代の作曲家の作品を積極的に取り上げた。たとえばロジェ=デュカス、シベリウス、プロコフィエフ、シマノフスキらは、ジロティの手で上演されることを企図して管絃楽曲を作曲している。
また、リストの高弟であったからといっていたずらに新しいものを追うのではなく、保守的な音楽にも一定の理解を示していた。たとえば少年時代のラフマニノフにジロティが与えた課題は、ブラームスの変奏曲であり、これによってラフマニノフに変奏曲に対する関心を植え付けたと言える。
経歴
[編集]アレクサンドル・ジロティは、イリヤ・ジロティと妻のユリアの間に生まれた。ユリアの父のアルカディー・ラフマニノフ(セルゲイ・ラフマニノフの父方の祖父)はジョン・フィールドにピアノを学び、自分のこどもたちにも音楽を学ばせた。ユリア自身も子供たちに音楽を学ばせようとした[1]。1871年からモスクワ音楽院でニコライ・ズヴェーレフに師事するかたわら、1875年からニコライ・ルビンシテイン、セルゲイ・タネーエフ、チャイコフスキー、フーベルトらの薫陶を受ける。1881年に金メダルを得てピアノ科を卒業。
1883年から1886年までヴァイマルでリストの薫陶を受けた後、ライプツィヒ・リスト協会の共同設立者に名を連ねる。1883年11月19日にライプツィヒで演奏家としてデビューを果たす。
1887年にジロティはモスクワでもっとも裕福なパーヴェル・トレチャコフの娘のヴェラと結婚した。豊富な資金を持つトレチャコフ家の後援によってジロティは自分のコンサートを開くことができるようになった。同年、母校モスクワ音楽院で教壇に立ち、ゴリジェンヴェイゼル、マクシモフ、従弟ラフマニノフらを指導。この頃チャイコフスキーのために校訂者として働き始め、とりわけ《ピアノ協奏曲第1番》と《第2番》の校正を行なった。
1889年にタネーエフにかわって音楽院長に就任したワシーリー・サフォーノフと対立し、1891年5月にモスクワ音楽院を辞職[2]、1892年から1900年までヨーロッパを拠点とし、アメリカ合衆国にも進出して欧米の各地で演奏活動に入り、1898年にはボストン、シンシナティ、シカゴでも演奏旅行に取り組んだ。この間に従弟ラフマニノフの名高い《前奏曲嬰ハ短調》を西ヨーロッパに初めて紹介している。ラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第2番》の世界初演では、作曲者自身のピアノとジロティの指揮によって行われた。
1901年から1903年までモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、1903年から1917年まで、サンクトペテルブルクにおいて、自ら資金を提供してジロティ演奏会を統率し、レオポルト・アウアーやパブロ・カザルス、シャリアピン、エネスコ、ヨゼフ・ホフマン、ワンダ・ランドフスカ、ヴィレム・メンゲルベルク、フェリックス・モットル、アルトゥル・ニキシュ、アルノルト・シェーンベルク、フェリックス・ワインガルトナーらを招いた。ドビュッシーやエルガー、シベリウス、グラズノフ、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーらの作品のロシア初演や世界初演も行なっている。ディアギレフがストラヴィンスキーの《花火》を知ったのも、ジロティ演奏会においてであった。スクリャービンは、「クーセヴィツキーよりも優れた音楽家。何と好感のもてる人でしょう」と評している。
1918年にマリインスキー劇場の監督に任命されるが、翌年にソ連邦を去ってイングランドに渡り、最終的に1921年12月に渡米し、ニューヨークに上陸する。アルトゥール・ルービンシュタインのとりなしでラフマニノフの推薦状を得て、1925年から1942年までジュリアード音楽院大学院で教壇に立つかたわら、時々リサイタルを開き、1930年11月にはトスカニーニの指揮により、全曲リスト作品による演奏会でも演奏を行なった。ジロティに個人指導を受けた者に、作曲家のマーク・ブリッツステインやピアニストのベンジャミン・オーウェン、ユージン・イストミン等がいる。
ジロティはピアノ独奏用の編曲を200点のこしたほか、ヴィヴァルディやバッハ、ベートーヴェン、リスト、チャイコフスキーの管絃楽曲を校訂している。ピアニストとしてピアノロールも残した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- C. Barber. Lost in the Stars -- The Forgotten Musical Life of Alexander Siloti (Rowman and Littlefield, New York, 2003)
- S. Bertensson. "Knight of Music." Etude 64:369, July 1946
- B. Dexter. "Remembering Siloti, A Russian Star." American Music Teacher, April/May 1989
- J. Gottlieb. "Remembering Alexander Siloti." Juilliard Journal, Nov 1990
- L.M. Kutateladze and L.N. Raaben, eds., Alexander Il'yich Ziloti, 1863-1945: vospominaniya i pis'ma (Leningrad, 1963)
- A. Ziloti. Moi vospominaniya o F. Liste (St Petersburg, 1911; My Memories of Liszt, Eng. trl. Edinburgh, 1913 and New York, 1986)