コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アルベルト・フォン・ロートシルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルベルト・フォン・ロートシルト

アルベルト・ザロモン・アンゼルム・フォン・ロートシルト男爵(ドイツ語: Albert Salomon Anselm Freiherr von Rothschild1844年10月29日 - 1911年2月11日)は、オーストリア銀行家貴族

ウィーン・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の第3代当主。

経歴

[編集]
アルベルト・ロートシルト宮殿ドイツ語版

アンゼルム・フォン・ロートシルト男爵とその妻シャルロッテ(英国ロスチャイルド家の祖ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの娘)の四男として誕生[1]

1874年に父が死去し、父の命令でウィーン・ロートシルト家の銀行業を継承した[2]。ロンドン・ロスチャイルド家やパリ・ロチルド家のような兄弟パートナー体制はとらず、ウィーン・ロートシルト家の全ての事業を彼一人で受け継いだ[3]

ウィーンのプリンツ・オイゲン街(Prinz-Eugen-Straße)に16世紀風の邸宅アルベルト・ロートシルト宮殿ドイツ語版を建設した[2]

ハプスブルク家の宮殿には高位貴族となってから4代を経なければ参内できない習わしがあり、貴族となってまだ3代目のアルベルトは参内できる立場にないはずだったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の計らいにより、1887年にロートシルト家は特例で参内してよいこととなった。これ以降ロートシルト家は皇帝フランツ・ヨーゼフや皇后エリーザベトと家族ぐるみの付き合いをするようになった(とりわけアルベルトの姉ジュリーとエリーザベト皇后は親友となった)[4]

1911年2月11日に死去。銀行業は三男のルイスドイツ語版に委ねた[3]

人物

[編集]

熱心な登山家であり、マッターホルン登頂も行った[2]

家族

[編集]

フランス・ロチルド家の当主アルフォンス・ド・ロチルドの娘ベッティーナ・カロリーネと結婚し、彼女との間に以下の7子を儲ける[5]

  • 第1子(長男)ゲオルク・アンゼルム・フォン・ロートシルト(1877-1934)
  • 第2子(次男)アルフォンス・マイアー・フォン・ロートシルト(1878-1942)
  • 第3子(長女)シャルロッテ・エステル・フォン・ロートシルト(1879-1885)
  • 第4子(三男)ルイス・ナタニエル・フォン・ロートシルトドイツ語版(1882-1955):銀行業を継承
  • 第5子(四男)オイゲン・ダニエル・フォン・ロートシルト(1884-1976)
  • 第6子(次女)ヴァレンタイン・ノエミ・フォン・ロートシルト(1886-1969):ジギスムント・フォン・シュプリンガー男爵と結婚
  • 第7子(五男)オスカー・ルーベン・フォン・ロートシルト(1888-1909)

関連項目

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ Lundy, Darryl. “Anselm Salomon Rothschild” (英語). thepeerage.com. 2014年5月19日閲覧。
  2. ^ a b c モートン(1975) p.190
  3. ^ a b モートン(1975) p.223
  4. ^ モートン(1975) p.192
  5. ^ Lundy, Darryl. “Salomon Albert Anselm Rothschild” (英語). thepeerage.com. 2014年5月19日閲覧。

参考文献

[編集]
  • フレデリック・モートン英語版『ロスチャイルド王国』高原富保 訳、新潮社新潮選書〉、1975年(昭和50年)。ISBN 978-4106001758