アルブレヒト7世 (メクレンブルク公)
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アルブレヒト7世 Albrecht VII. | |
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メクレンブルク公 | |
在位 | 1503年 - 1547年 |
出生 |
1486年7月25日 |
死去 |
1547年1月5日(60歳没) |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 メクレンブルク公領、ドベラーン・ミュンスター |
配偶者 | アンナ・フォン・ブランデンブルク |
子女 | 本文参照 |
家名 | メクレンブルク家 |
父親 | メクレンブルク公マグヌス2世 |
母親 | ゾフィー・フォン・ポンメルン=シュテティーン |
アルブレヒト7世(Albrecht VII., 1486年7月25日 - 1547年1月5日)は、メクレンブルク公(在位:1503年 - 1520年)、メクレンブルク=ギュストロー公(在位:1520年 - 1547年)。また、スカンディナヴィアの王位に対する権利を主張した。
生涯
[編集]メクレンブルク公マグヌス2世とゾフィー・フォン・ポンメルン=シュテティーンの息子である[1]。
デンマークの内乱(伯爵戦争)において、自由都市リューベックはアルブレヒト7世をさまざまな派閥との同盟に参加させ、デンマーク王位を約束した。しかし、デンマーク王クリスチャン3世はなんとか自らの王位を守った。オルデンブルク伯クリストファおよびアルブレヒト7世は1535年から1536年にかけてコペンハーゲンで包囲され、最終的に降伏した。
結婚と子女
[編集]1524年1月17日、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の娘アンナ・フォン・ブランデンブルクと結婚した[1]。この結婚で以下の子女が生まれた。
- マグヌス(1524年11月19日) - 生まれた日に死去
- ヨハン・アルブレヒト1世(1525年 - 1576年) - メクレンブルク=ギュストロー公、のちメクレンブルク=シュヴェリーン公
- ウルリヒ3世(1528年 - 1603年) - メクレンブルク=ギュストロー公
- ゲオルク(1529年2月22日 - 1552年7月20日)
- アンナ(1533年10月14日 - 1602年7月4日) - クールラント・ゼムガレン公ゴットハルト・ケトラーと結婚
- ルートヴィヒ(1535年)
- ヨハン(1536年)
- クリストフ(1537年6月30日 - 1592年3月4日) - メクレンブルク=ガーデブッシュ公。1573年にデンマーク王フレゼリク1世の娘ドロテアと結婚、1581年5月14日にエリサベト・ヴァーサと結婚。
- ゾフィー(1538年4月10日 - 1538年)
- カール1世(1540年9月28日 - 1610年7月22日) - メクレンブルク=ギュストロー公
脚注
[編集]- ^ a b Heinz Maybaum: Albrecht VII.. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 1, Duncker & Humblot, Berlin 1953, ISBN 3-428-00182-6, S. 167 f. (電子テキスト版).
参考文献
[編集]- Lutz Sellmer, Albrecht VII. von Mecklenburg und die Grafenfehde (1534-1536), Frankfurt am Main 1999.
- Heinz Maybaum: Albrecht VII.. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 1, Duncker & Humblot, Berlin 1953, ISBN 3-428-00182-6, S. 167 f. (電子テキスト版).
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