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アッシュル・ニラリ1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アッシュル・ニラリ1世
アッシリア王
在位 前1529年-前1503年

子女 プズル・アッシュル3世
王朝 アダシ
父親 イシュメ・ダガン2世英語版
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アッシュル・ニラリ1世Aššur-nārāri Imaš-šur-ERIM.GABA、「アッシュル神は我が助け」)は古アッシリアの王。前2千年紀半ばに26年間在位した。推定される絶対編年は前1534年頃-前1509年頃(Landsberger)または前1523年頃-前1499年頃(Gasche)。『アッシリア王名表』において60代目の王としてリストされており、伝統的にアッシリアの王たちが採用していた称号である「総督(ensi)」及び「(アッシュルの)副王(iššiak)」に加えて 「修復者(muddiš)」と「建築者(bāni)」という称号が加えられている[1]

来歴

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彼はイシュメ・ダガン2世英語版の息子であり、兄弟のシャムシ・アダド3世英語版の後を継いで王位につき、26年間在位したとされている。これは3つの『アッシリア王名表』のバージョン(コルサバド[i 1]、SDAS[i 2]、アッシュル[i 3])全てにおいて一致している[2]。『対照王名表(Synchronistic Kinglist[i 4]』が彼の同時代のバビロニア王として「Kaštil[...]」という王名を記載しており、恐らくカシュティリアシュ3世英語版に同定できる。彼はブルナ・ブリアシュ1世英語版の息子であり後継者である。これらのカッシート人のバビロン王はカッシート王朝が南部メソポタミア(バビロニア)に対する支配を及ぼし始めた頃の王である。

アッシュル・ニラリ1世の建設活動についての証拠が残されている。古い渓谷から発見されたレンガに記載された4つの碑文が、Bel-ibrīia神殿の建設作業アバル(Abaru)の前庭の修復、そしてé.ḫúl.ḫúl.dir.dir.ra(大いなる歓喜の家)と呼ばれるシンシャマシュ(月神/太陽神)の神殿の再建を記念している[3]。この神殿は後世、トゥクルティ・ニヌルタ1世アッシュル・ナツィルパル2世によって再建されることになる[4]。アッシュル・ニラリ1世の跡は息子のプズル・アッシュル3世が継いだ。

史料

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  1. ^ Khorsabad Kinglist, tablet IM 60017 (excavation nos.: DS 828, DS 32-54) ii 36.
  2. ^ SDAS Kinglist, tablet IM 60484, ii 28.
  3. ^ Nassouhi Kinglist, Istanbul A. 116 (Assur 8836), ii 32.
  4. ^ Synchronistic Kinglist, Ass 14616c, KAV 216, i 21.

脚注

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  1. ^ Barbara Cifola (1995). Analysis of variants in the Assyrian royal titulary from the origins to Tiglath-Pileser III. Istituto universitario orientale. p. 18 
  2. ^ A. Fuchs, K. Radner (1998). “Aššur-nerari”. In K. Radner. The Prosopography of the Neo-Assyrian Empire, Volume 1, Part I: A. The Neo-Assyrian Text Corpus Project. p. 208 
  3. ^ A. K. Grayson (1972). Assyrian Royal Inscriptions, Volume 1. Otto Harrassowitz. pp. 33–34 
  4. ^ A. R. George (1993). House Most High: The Temples of Ancient Mesopotamia. Eisenbrauns. p. 100 
先代
シャムシ・アダド3世英語版
アッシリア王
前1534年-前1509年
次代
プズル・アッシュル3世